HISTORICAL PERSON · 1946年没

ジョージ・アーリス

イギリスの俳優。1908年の『悪魔』で初の主役を務め、トーキー第1作『ディズレーリ』(1929年)で第3回アカデミー賞の男優賞を受賞した。

生涯
1946年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(ロンドン)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ジョージ・アーリスは、1868年4月10日にロンドンで生まれたイギリスの俳優で、作家、劇作家、映画製作者でもあった。本名はジョージ・オーガスタス・アンドルーズといい、親族からは「ガスおじさん」と呼ばれた。父ウィリアムの出版社で働いたが、18歳で舞台を志して家を出た。弟のフレッド・アンドルーズは美術を学び、妹のアニタはロサンゼルスで演技を教えた。1887年に地方の劇場で舞台のキャリアを始め、1900年までにはロンドンのウェスト・エンドで脇役を演じるようになっていた。1901年にパトリック・キャンベル夫人の一座でアメリカ巡業に出たが、巡業の間だけ滞在するつもりだった。しかし結局20年間アメリカにとどまり、1902年に『マグダ』でブロードウェイにデビューした。

1908年、『悪魔』のニューヨーク公演で初の主役を務めて、スターになった。1911年には、プロデューサーのジョージ・タイラーが、アーリスのための戯曲をルイ・ナポレオン・パーカーに依頼した。それが『ディズレーリ』で、彼は5年間これを巡演し、19世紀のイギリスの首相ディズレーリと強く結びつけられるようになった。1919年には雑誌に、新しい戯曲を特別な条件で試せる非営利の「シアター・アネックス」の構想を発表した。映画への出演は1921年の『悪魔』に始まり、続いて『ディズレーリ』と、ほかに4本の無声映画に出た。1929年には『緑の女神』と『ディズレーリ』をトーキーで撮り直し、『ディズレーリ』でアカデミー主演男優賞を受賞した。61歳での転身であった。英国人として最初にアカデミー賞を受けた人物で、生まれの最も早い受賞者でもある。「スクリーン最初の紳士」と呼ばれた。

ワーナー・ブラザースとは10本のトーキーを専属契約で撮った。当時としては異例なほどの創作上の自由があり、出演者の配役や脚本の書き直しの権限も与えられていた。そのうちの1本、『神を演じた男』(1932年)は、ベティ・デイヴィスの最初の主演作である。デイヴィスは生涯にわたり、アーリスが自ら彼女を相手役に主張し、才能を示す機会を与えてくれたと語った。二人は1933年の『労働者』でも共演している。ワーナーの内部には彼の製作班がつくられ、舞台監督のモード・T・ハウエルは助手プロデューサーとなり、当時のハリウッドでは数少ない女性の映画幹部となった。見知らぬ才能を見いだす目があり、ジェームズ・キャグニーやランドルフ・スコット、ディック・パウエルを世に出した。製作に深く関わりながら、本人は演技の功績しか主張しなかった。

プロデューサーのザナックがワーナーを辞して20世紀映画社を設立した1933年4月にアーリスも同社を去り、ザナックはすぐ彼と契約した。ワーナーは「盗まれた」と映画芸術科学アカデミーに苦情を述べた。妻のフローレンスは、舞台でも映画でも彼と共演し、ほとんどの場合その妻役を演じた。『アレクサンダー・ハミルトン』(1931年)や『ヴォルテール』(1933年)、『ロスチャイルド』(1934年)、『風雲の欧羅巴』(1934年)といった歴史上の人物の伝記映画を得意とし、『千萬長者』(1931年)のような家庭喜劇も撮った。重要な役どころで真価を発揮する一方、浮浪者を見事に演じてみせる一面もあった。1934年には、イギリスの映画ファンが彼を好きな男優に選んだ。1937年に、イギリスで製作した『ドクター・シン』を終えると、夫妻はアメリカの旧友を訪ね、1938年1月にはラジオ番組で『ディズレーリ』を再演した。1946年2月5日に亡くなった。

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