伝記
リクサ・エルジュビェタは、ボヘミア王・ポーランド王ヴァーツラフ2世の二番目の妃であり、その死後にボヘミア王となったオーストリア公ルドルフ3世の妃でもある。チェコ語ではエリシュカ・レイチュカ、ドイツ語ではエリーザベト・リヒツァと呼ばれる。ポーランド王プシェミスウ2世の一人娘で、母はスウェーデン王ヴァルデマール1世の三女リクサである。生まれは1286年とも1288年ともいわれ、ポズナンで生まれたとされる。父は1295年に2世紀ぶりにポーランド王として戴冠したが、翌1296年2月に男子のないまま暗殺された。幼いリクサは、父の唯一の子としてポーランド王位をめぐる争いで重要な立場に置かれた。そのころ継母の弟であるブランデンブルクのオットーと婚約していたが、1299年にオットーが亡くなって婚約は終わった。
1300年、リクサのポーランド王位継承権を利用してポーランドを得ようとした寡夫のボヘミア王ヴァーツラフ2世と結婚することになり、プラハに送られた。ヴァーツラフ2世はこの年にポーランド王を兼ねた。結婚の式典は、リクサが成人するまでしばらく待たれ、1303年にプラハで行われた。5月26日にボヘミア王妃として戴冠すると同時に結婚披露宴も開かれた。リクサという名はボヘミアでは一般的でなく奇妙に思われたため、このときエリシュカ、すなわちエルジュビェタと名を改めた。1305年に娘のアネシュカが生まれ、その直後の6月21日にヴァーツラフ2世が結核のため病没した。未亡人となったリクサは、同年8月から10月まで摂政を務めた。継子のヴァーツラフ3世が父の跡を継いだが、翌1306年にオロモウツで暗殺された。ポーランドの君主の座はクヤヴィ公ヴワディスワフ1世に渡った。
1306年10月16日、リクサはヴァーツラフ3世の後継者を名乗ってボヘミア王位を狙うオーストリア公ルドルフ3世と再婚した。ルドルフはボヘミア王に即位してルドルフ1世となり、リクサは王妃の座に復帰した。しかしこの復権は短く、1307年7月4日、ルドルフは反対派の貴族を城砦に追い込んで包囲しているあいだに赤痢にかかり、急死した。リクサはまた未亡人となり、ボヘミア王位をめぐる争いに巻き込まれた。義父のローマ王アルブレヒト1世は王位の獲得を試みたが1308年に暗殺され、最終的にはヴァーツラフ2世の三女エリシュカと結婚したルクセンブルク家のヤンが、ボヘミアの新しい王朝を築いた。
夫を亡くして間もなく、リクサはプラハを離れ、寡婦領の一つであるフラデツに移った。三度目の結婚はしなかったが、モラヴィアの軍司令官で、国王ヤンの不在中は総督としてボヘミアを治めていたリペーと一緒に暮らした。二人は1318年にブルノへ移り、1329年にリペーが死去するまでの11年間を過ごした。この穏やかな晩年に、リクサは文化や宗教に関心を寄せるようになり、シトー会の女子修道院を建てたり、挿絵つきの讃美歌集の制作に出資したりした。1335年にブルノで死去し、自分が通っていた教会の床に、リペーの遺体と隣り合って葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- アブー・サイード (1335年没)
- Luther von Braunschweig (1335年)
- ダナシリ (1335年没)
- ニケフォロス・カリストス・カントポウロス (1335年)
- ジョヴァンニ2世オルシーニ (1335年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴァーツラフ・ハヴェル (2011年没)
- ヨセフ・ゴチャール (1945年没)
- エリーザベト・フォン・ポンメルン (1393年没)
- フランツ・ヨゼフ・フォン・ガートナー (1832年没)
- バティルディス・フォン・アンハルト=デッサウ (1902年没)