HISTORICAL PERSON · 1333年没

守邦親王

鎌倉幕府の第9代征夷大将軍で、最後の将軍。8歳で就任し、24年9か月と将軍の中で最長の在職期間だったが、実権は北条得宗家が握った。1333年の鎌倉陥落の日に将軍を辞して出家した。

生涯
1333年没
死亡地
日本(神奈川県 / 鎌倉市)
出生地
日本(鎌倉市)
出典
世界地図
日本(神奈川県)

伝記

守邦親王は、鎌倉幕府の第9代にして最後の征夷大将軍である。在職は24年9か月に及び、鎌倉幕府の将軍の中で最も長かった。親王の身位を持ちながら、生涯京都の地に足を踏み入れることがなかったと考えられている。第8代将軍久明親王の子で、母は第7代将軍惟康親王の娘の中御所である。

徳治3年(1308年)8月、父に代わって、わずか8歳で征夷大将軍に就任した。同年9月19日には、後深草天皇の孫でありながら三品親王に叙せられた。10月には延慶へ改元されたが、花園天皇が即位した同じ年の改元は先例と異なっていた。そのため、幕府が守邦親王の将軍就任を祝って朝廷に改元を求めたという見解がある。当時左大臣だった鷹司冬平は日記にこれを嘆き、後伏見上皇も「左右に及ばず」と受け入れた。当時の幕府の実権は北条得宗家とそれを補佐する者たちに握られ、将軍は名目的な存在にすぎなかったため、守邦親王の事績はほとんど伝わっていない。数少ない事績の一つとして、文保元年(1317年)4月、内裏の造営の功によって二品に昇叙された。在職中の執権は北条師時から宗宣、煕時、基時、高時、貞顕、守時まで7人を数え、守邦親王は守時と、高時の長男邦時に、自らの名の一字を偏諱として与えた。

また、日蓮の六老僧の一人日朗に、題目宗(法華宗)の是非を問う問答対決を命じたとされる。日朗は高齢のため弟子の日印を出し、日印は文保2年(1318年)12月20日から翌年9月15日にかけて、日本の仏教全宗派と法論を戦わせた。これを鎌倉殿中問答という。日印が全宗派を論破した結果、幕府は題目宗の布教を正式に認めた。元弘2年(1332年)6月には、浄土真宗の覚如に本願寺留守職を安堵する令旨を発し、本願寺を勅願寺として公認した。本願寺の院号が確認できる現存の公文書では、これが最古の例である。

元弘3年(1333年)、後醍醐天皇による倒幕運動の元弘の乱が起きた。後醍醐天皇の皇子護良親王が発した令旨で討伐の対象とされたのは「伊豆国在庁時政子孫高時法師」であり、守邦親王は名目上の幕府の長としての地位すら無視されていた。ただ、承久の乱で後鳥羽上皇の院宣が藤原頼経でなく北条義時を追討対象としたのと同じく、守邦親王には罪を求めず北条氏と高時を討つ意図だったという見解もある。5月22日、新田義貞らの攻撃で鎌倉は陥落して幕府は滅び、北条高時以下の北条一族の大半は東勝寺で自害した。この日の守邦親王の行動は何も伝わっておらず、将軍職を辞して出家したことだけがわかっている。幕府の滅亡から3か月後に亡くなったと伝えられるが、その状況も全く分からない。埼玉県比企郡には、鎌倉を逃れて増尾郷に至り、梅王子と号して病没し、大梅寺に葬られたという伝承も残る。

康永4年(1345年)8月16日には、建仁寺で十三回忌の千僧供養が営まれた。同じ日、天龍寺では後醍醐天皇の七回忌法要が足利尊氏・直義の兄弟が参列して行われていた。旧暦では二人の命日は同じ日にあたる。記録に残る唯一の子の守恵は、貞和2年(1346年)に勝長寿院別当と日光山別当に任じられ、永和4年(1378年)2月に没した。これにより守邦親王の系統は歴史から姿を消した。

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