HISTORICAL PERSON · 1332年没

トク・テムル

モンゴル帝国第12代カアン。兄コシラへの譲位を条件に一時即位し、後に兄が急死すると改めてカアンとなった複雑な即位を経た皇帝。

生涯
1332年没
死亡地
元(北京市 / 大都)
出生地
元(大都)
出典
世界地図
元(北京市)

伝記

トク・テムルは、1304年2月16日に生まれ、1332年9月2日に没したモンゴル帝国の第12代カアンである。元の皇帝としては第8代にあたり、漢字では図帖睦爾と書く。第7代カアンの武宗カイシャンの次男で、母はタングート部の出身。明宗コシラの異母弟でもある。

1311年にカイシャンが急死し、叔父のアユルバルワダが即位したとき、トク・テムルはまだ8歳であった。祖母のダギと丞相テムデルらは、ダギと同じコンギラト部の者を母としないコシラとトク・テムルの兄弟を中央から遠ざけた。英宗シデバラが即位すると、トク・テムルはシデバラ、ダギ、テムデルらによって海南島に流された。1323年にシデバラが暗殺されたとき、兄弟は中央から離れた場所にいたため、晋王イェスン・テムルがカアンの地位を容易に手に入れた。イェスン・テムルが暗殺犯のテクシらを処刑して政権を一新すると、トク・テムルは処分を緩められて懐王に封ぜられ、建康(現在の南京)、ついで荊湖北道の江陵に住まわされた。このころすでに学問や芸術に幅広い関心を示し、多くの漢人の文人や芸術家を周囲に集めていたという。

1328年旧暦7月に上都でイェスン・テムルが死ぬと、大都にいたキプチャク親衛軍の司令官エル・テムルがカイシャンの遺児の擁立を訴え、反乱を起こして政府官庁を占拠した。兄のコシラは遠くアルタイ山脈西麓にいたので、手近な江陵にいたトク・テムルが大都に迎えられ、旧暦9月に即位した。当初は即位を拒んだが、エル・テムルに説得され、大都に到着したコシラに譲位することを条件に一時的に即位したという。上都ではイェスン・テムルの寵臣ダウラト・シャーが、イェスン・テムルの遺児アリギバを擁立していた。しかしエル・テムル率いる大都側の軍が上都側を破り、内モンゴルから華北の諸軍団がことごとく大都側についたため、ダウラト・シャーは降伏した。

そのころコシラはアルタイ山脈を越えてカラコルムに入り、モンゴル高原の諸王族や有力者の支持を取り付けていた。1329年、トク・テムルはコシラにカアン位を譲り、自らは兄の皇太子とされた。宮廷の重職にはコシラの側近が配置された。エル・テムルら大都の人々は、コシラが即位すれば側近や遊牧貴族に政権を奪われることを恐れていた。陰暦8月2日にトク・テムルはコシラと再会して祝宴が開かれたが、会見の直後にコシラは急死した。8月15日、トク・テムルは大急ぎで復位した。エル・テムルはコシラの側近を追放・処分し、大都の軍閥勢力が再び政権を握った。

復位後の3年間、エル・テムルが独裁権力をふるい、カアンはその傀儡にすぎなかった。内政も外政も軍閥間の利権政治に終始し、元朝の衰退がはっきりし始めた時代とされる。一方でチベット仏教の寺院に多額の寄付をし、儒学を保護してその地位を引き上げた。元の政治制度を漢文でまとめた『経世大典』の編纂は、彼が実施した文化事業として挙げられる。詩や書画も手がけ、作品の一部は今に伝わるという。1332年、安西王アナンダの子オルク・テムルをカアンに擁立する陰謀が露見し、参加者は処刑された。同年、トク・テムルは30歳足らずで急死した。子のエル・テグスがいたが、兄の遺児を後継者とするよう遺言したため、コシラの次男イリンジバルが7歳で次代のカアンに擁立された。

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