HISTORICAL PERSON · 1945年没

ハインリヒ・ヒムラー

ナチス・ドイツの政治家。親衛隊全国指導者として警察機構を掌握し、治安・諜報で強大な権力を握って迫害を実行した。

生涯
1945年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州 / リューネブルク)
出生地
ドイツ連邦共和国(ミュンヘン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州)

伝記

ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラーは、1900年10月7日に生まれ、1945年5月23日に没したナチス・ドイツの政治家である。親衛隊のトップである親衛隊全国指導者として、治安と諜報などで強大な権力を握り、国内統制や反ナチ勢力、ユダヤ人などに対する迫害を実行した。

バイエルン王国の首都ミュンヘンで、ヒムラー家の次男として生まれた。父ゲプハルトは、税関職員の非嫡出子として生まれ、名門のミュンヘン大学を出てギムナジウムの教師になった人物で、バイエルン王室のハインリヒ王子の家庭教師も務めていた。母アンナ・マリアは裕福な貿易商人の娘であった。名の「ハインリヒ」は、代父となった王子から授かったもので、当時、王室から名をもらうのは大変な名誉であった。ヒムラー家は王室との関わりとカトリックへの厚い信仰により、保守的な家風で、安定した中産階級の家庭であった。戦後、多くの歴史学者が幼少期や青年期のヒムラーに異常性や犯罪性を探したが、それらしきものは見出せなかった。小学校時代はよく体調を崩したが、家庭教師の指導で遅れを取り戻し、1910年にミュンヘンの名門ギムナジウムに入学した。担任から、クラスで最優秀の成績を収めたと称賛されている。同級生の歴史学者は、この頃のヒムラーを「虫一匹殺せないような少年だった」と述懐した。1913年に父がランツフートのギムナジウムの共同校長となり、一家は同地に移った。歴史学や古典学、宗教学で最優秀の成績をとったが、体育だけは苦手であったという。

第一次世界大戦中の1915年に、兄とともに青少年準軍事組織に参加した。従軍を望み、父に頼み込んで、1917年末にバイエルン王国の歩兵連隊に入隊した。海軍士官を志願したが、眼鏡をかけていたため受け入れられなかった。ところが前線に配属される前の1918年11月にドイツが降伏し、実戦経験を持つことはなかった。ヒムラーは、親衛隊全国指導者に就任したのち、この経歴を詐称し、公式履歴で、西部戦線へ出征したかのように記している。戦後は反革命義勇軍の一部隊に加わったが、後方支援の任務に留まった。経済的な困窮を予想した父の求めで農場で働いたが、チフスに罹り、1919年10月にミュンヘン工科大学に入学して農学を学んだ。決闘で顔に傷を負いたいと願って学生倶楽部に入ったが、胃弱でビールが飲めず、弱々しい彼は誰にも相手にされなかった。ようやく決闘できたのは、卒業間近の1922年6月のことであった。1922年8月に学位を取得し、卒業して、農薬や肥料を扱う会社の研究員となったが、1923年8月末に退職して、政治活動に専念するようになった。

1929年にナチ党の準軍事組織である親衛隊の第3代全国指導者となり、1936年には全ドイツ警察長官に任命されて、国内の警察機構を掌握した。ヒムラー率いる親衛隊が次々に権限を拡大したことで、ナチ体制は「親衛隊国家」の性格を濃くした。第二次世界大戦期には、占領したヨーロッパの広い地域に権力が及び、親衛隊は絶滅収容所を通じて、ユダヤ人らの大量虐殺を組織的に実行した。大戦後期には、軍集団の指揮も任されたが、軍事的素質に乏しく、目立った戦果はなかった。ドイツの戦況を絶望視して、独断でアメリカとの講和交渉を試みて失敗し、ヒトラーの逆鱗に触れて解任された。逃亡を図ったが、1945年5月22日にイギリス軍の捕虜となり、翌日に自殺した。

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