伝記
オットー1世は1204年ごろに生まれたヴェルフ家の人物で、のちに初代のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公となった。父はハインリヒ獅子公の末子リューネブルク公ヴィルヘルム、母はデンマーク王ヴァルデマー1世の娘ヘレネで、その一人息子だった。伯父の皇帝オットー4世と区別するため、幼童公とも呼ばれる。1213年に父が没し、まだ幼いうちにその所領を継いだ。1218年には伯父オットー4世が没し、その領土も受け継いだ。
1223年、元ライン宮中伯の伯父ハインリヒ5世は、ザクセンとバイエルンの両公領に残るヴェルフ家の自領と私有の封土を甥に継がせる証書を作った。皇帝フリードリヒ2世はこれを知ると、ハインリヒ5世の娘たちに働きかけ、バーデン辺境伯妃イルムガルトとバイエルン公妃アグネスから、ザクセン公の血を引くとしての相続の請求権を買い取った。ハインリヒ5世が没すると、皇帝はローマ王に帝国の軍を与えてブラウンシュヴァイクの占領に向かわせたが、すでに諸身分に正統の君主と認められていたオットーを都市は迎え入れており、王の軍は引き揚げた。そののちオットーは母方の伯父であるデンマーク王ヴァルデマー2世と互いを助け合う条約を結び、王からガルディングとテーテスビュルの伯に任じられた。条約は結果としてブラウンシュヴァイクの諸領にとって有害だったという。オットーは1225年のメルンの戦い、1227年のボルンヘーフェトの戦いにデンマーク側で加わり、後者のあとロストックで捕らえられて要塞に幽閉された。
皇帝フリードリヒ2世は捕囚を知ると、再びブラウンシュヴァイクへ兵を向けた。王子ハインリヒがバイエルン公とともに軍を率いたが、市は城門を閉ざして守りを固め、背後にはデンマーク王も迫っていたため、軍は退いた。1228年、シュヴェリーン伯が死に際に釈放を命じた。ザクセン公は共同の権利を主張して当初は拒んだが、身代金の担保としてハルトザクレ城などを得ることを認められ、オットーの解放に応じた。オットーは1228年9月にブラウンシュヴァイクへ帰り、家臣たちに迎えられた。都市の特許状を更新して特権を大きく広げ、ヴァルデマー2世も、市民がデンマーク領内で関税なしに商いをする自由を与えた。帰路でブランデンブルク辺境伯の宮廷に数日滞在した際に見初めた辺境伯の娘マティルデに結婚を申し込み、1228年にリューネブルクで式が行われた。二人は10人の子をもうけた。
1235年、マインツで帝国議会が開かれ、オットーは皇帝フリードリヒ2世からブラウンシュヴァイク=リューネブルク公に叙された。北ドイツの所領をめぐって母方の伯父ヴァルデマー2世と衝突したこともあった。1252年6月9日、リューネブルクで没した。
子には、ホラント伯でドイツ対立王のウィレム2世に嫁いだエリーザベトや、ヒルデスハイム司教オットー、フェルデン司教コンラートらがいる。遺領は息子のアルブレヒト1世とヨハンが共同で相続したが、のちに分割し、アルブレヒト1世はヴォルフェンビュッテル侯領を、ヨハンはリューネブルク侯領を治めた。ヨハンの子孫は断絶し、アルブレヒト1世の子孫がリューネブルク侯領も継いだ。18世紀にはリューネブルク系のハノーファー選帝侯ジョージ1世がイギリス王位を継いでハノーヴァー朝を開き、ヴォルフェンビュッテル系も19世紀にブラウンシュヴァイク公国を成立させた。
同じ年に亡くなった人物
- ブランシュ・ド・カスティーユ (1252年没)
- フェルナンド3世 (カスティーリャ王) (1252年没)
- ヴィテルボのローザ (1252年)
- ハインリヒ1世 (アンハルト伯) (1252年没)
- ザベル (キリキア・アルメニア王国女王) (1252年没)
同じ地域に関係する人物
- クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1626年没)
- ヨーゼフ・クラーマー (1945年没)
- ヘルムート・プレスナー (1985年没)
- アマーリア・アヴ・スヴェーリエ (1853年没)
- ルドルフ・アウグスト (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公) (1704年没)