HISTORICAL PERSON · 1945年没

ステファン・バナフ

ポーランドの数学者。バナッハ空間論や関数解析学などで大きな業績を残し、ルヴフ学派の創設メンバーの一人となった。

生涯
1945年没
死亡地
ウクライナ(リヴィウ州 / リヴィウ)
出生地
ポーランド共和国(クラクフ)
出典
世界地図
ウクライナ(リヴィウ州)

伝記

ステファン・バナフは、1892年3月30日、オーストリア=ハンガリー帝国領のクラクフに生まれたポーランドの数学者である。バナッハ空間論、実解析、関数解析学、数学基礎論などに多大な業績を残した。父ステファン・グレチェクはクラクフに駐屯する帝国軍の兵士、母カタジナ・バナフは家事手伝いで、ともにポドハレ地方の出身であった。母の姓を名乗っているのは、父の階級の兵士に結婚が許されず、母も貧しくて子を養えなかったためで、幼いステファンは親族や知人に預けられた。はじめの数年は祖母のもとにいたが、祖母が病に倒れると、父の手配でクラクフのプウォヴァ夫人と姪のもとで育てられた。ステファンはこの夫人を養母、姪を姉と思うようになった。幼いころは、プウォヴァ家の友人のフランス人ミアンにフランス語を教わった。

1902年、10歳でクラクフの第四ギムナジウムに入学した。人文教育に重きを置く学校だったが、親友のヴィトルト・ヴィウコシュ(のちの数学者)と休み時間や放課後に数学の問題に取り組んで過ごした。物理と数学の教師クラフト博士が、数学への関心の火をつけたと、のちに語っている。1910年、18歳で卒業試験に合格し、ルヴフ(現ウクライナのリヴィウ)の工科大学で学ぶことにした。数学にはもう新しい発見はないと考えて、工学を選んだのである。生活費を稼ぐ必要があり、1914年に前期課程を修了した。

第一次世界大戦が始まると、左利きと弱視のため兵役を免れた。ロシア軍がルヴフへ攻勢をかけると、クラクフへ移り、終戦まで過ごした。家庭教師や書店の店員、道路工事の現場監督などで生計を立てた。転機は1916年、クラクフのプランティ公園で訪れた。教授フーゴ・シュタインハウスが散歩中に「ルベーグ積分」という言葉を耳にして、数学の話をしていた仲間のもとに歩み寄ったのである。シュタインハウスは独学の青年に魅了され、取り組んでも難しかった問題を解くよう頼んだ。バナフはまたたく間に解いてみせ、数学の才能を認められて、数学者の道に進んだ。この出会いが、長く続く協力と友情の始まりだった。

1920年、シュタインハウスの助力で工科大学の教授の助手になり、同年ルヴフ大学から博士号を授与された。博士論文には、今日バナッハ空間と呼ばれる概念が導入されており、現代的な関数解析の幕開けを告げるものとして高く評価されている。1922年に工科大学の教授となり、ルヴフ大学の助教授の資格を得て、教科書を精力的に執筆した。このころからバナフらルヴフ学派の数学者は、スコティッシュ・カフェに集まって数学を論じるようになり、その成果を記したノートが後に出版された。1927年にルヴフ大学の教授となった。1931年に『線形作用素論』を出版し、関数解析やバナッハ空間の成果を集成した。バナッハ・タルスキーのパラドックスも彼の異色の成果である。

1939年9月、第二次世界大戦の勃発直後にルヴフはソ連に占領された。比較的平穏に過ごし、ソ連の数学者ソボレフとも親交を深めて、ウクライナ国立学士院の通信会員になった。1941年にドイツがソ連に侵攻するとルヴフはドイツの支配下に入り、シラミの培養の仕事を押しつけられ、ナチスに逮捕されたこともあった。その合間にも後進を指導していたようである。ナチスは40人以上のポーランドの知識人を殺害したが、バナフは奇跡的に難を逃れた。戦争の過酷な環境で健康を蝕まれ、1945年8月31日、肺癌によりルヴフで亡くなった。

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