伝記
フェーリックス・ザルテンは、1869年9月6日、ブダペストのユダヤ教徒の家庭に、ジークムント・ザルツマンの名で生まれた。ハンガリー語を話す家庭で、父はハンガリー系ユダヤ人の技師だった。ウィーンへの移住は、生後4週間で一家が移ったともいわれ、青年期にドイツ語を学び、文学で身を立てようと1880年代半ばに移ったともいわれ、説が食い違っている。一家は最初ウィーンのアルザーグルント地区、のちにヴェーリング地区に住んだ。ジークムントは高等学校を卒業せずにやめ、保険会社で働いた。一家が経済的に苦しかった理由ははっきりしないが、のちに父を同化したユダヤ人で夢想家だったと書いている。
最初の詩が確認できる雑誌に載ったあと、1890年にグリーンシュタイドル・カフェで、シュニッツラー、ホーフマンスタール、ベーア=ホフマン、バール、クラウスらの青年ウィーン派の人々と知り合った。ほかの作家と違って大ブルジョワの出身ではなく、書くことで生計を立てなければならなかった。このころの最初の小説は大都市を描いた。1893年ごろから仲間と意見の違いが生じ、ホーフマンスタールとシュニッツラーから曖昧さを批判されたが、シュニッツラーとは自転車で遠出をするほど親しかった。ウィーンに出たのちに、名をフェーリックス・ザルテンと改めたとされる。
1894年の秋にウィーン一般新聞の編集者となり、演劇批評を担当した。この立場を生かして、友人たち、とくにシュニッツラーを記事で励ました。1898年にハプスブルク家の大公と知り合い、宮廷や一族の奇妙な生活を知る機会を得た。1902年に新聞『ディー・ツァイト』に移り、宮廷のスキャンダルを伝える記事で、ウィーンを越えて名を知られるようになった。1903年から1905年には「サシャ」の筆名で、ヨーロッパの王や皇帝の人物評を連載した。民衆が支配する近代の民主主義には懐疑的で、キリスト教社会党とその政治的な反ユダヤ主義にも批判的だった。同じ1902年にブルク劇場の女優オティリエ・メッツェルと結婚し、1903年に息子パウル、1904年に娘アンナ・カタリーナが生まれた。結婚の主題は小説や戯曲で大きな位置を占めるようになった。
1901年には青年ウィーン派の劇場を創設したが、成功せず損失を出した。1906年にはカバレット「ナハトリヒト」の創設に動いた。借金が多くても暮らしぶりは派手で、1904年にはエジプトを旅した。政府支持の新聞の演劇批評家として名を上げ、オーストリア・ペンクラブの会長を務め、第一次世界大戦では政府支持を表明した。専ら体制側の作家とみられたが、1906年に無署名で書かれたとされるウィーンの古典的なポルノ小説『ヨゼフィーネ・ムッツェンバッハーの思い出』の作者ともされるなど、裏表のある人物だった。動物好きで、ウィーン郊外に私的な狩猟区を持つほどの狩猟愛好家だったが、1924年には、のちに反狩猟文学の傑作と呼ばれる『バンビ 森の生活』を出版した。1923年の『フィレンツェの犬』は1959年のディズニー映画『ボクはむく犬』の原作で、1933年には『白馬フローリアン』を著した。1938年以降はナチスによるユダヤ系市民の迫害を逃れてアメリカに亡命し、1945年のナチスの敗北後にスイスに戻り、チューリッヒで同年10月8日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
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- フォルデシュ・アンドール (1992年没)