伝記
ロバート・ハッチングズ・ゴダードは、1882年10月5日、マサチューセッツ州ウースターに、父ナハム・ダンフォード・ゴダードと母ファニー・ルイーズ・ホイトの子として生まれた。弟のリチャードが脊椎の変形で亡くなり、一人っ子となった。幼いころから決意と機械への才能を見せ、父の望遠鏡で空や鳥を観察した。電気の導入期にあたり、父が静電気の効果を見せたことで科学への関心が高まり、小さな実験を始めた。足を砂利でこすって電池の亜鉛を帯電させれば高く跳べるはずだと信じて試し、失敗したこともある。母から、成功すれば遠くへ行って戻れなくなると言われ、実験をやめたという。化学薬品で煙の雲を作り、家の中で爆発を起こしたこともあり、父は望遠鏡や顕微鏡、科学雑誌の購読を与えて関心を伸ばそうとした。凧や気球にも夢中になり、自分の仕事を丹念に記録する習慣が身についた。16歳でアルミニウムの気球を自作しようとし、5週間ほど取り組んだ末に、アルミが重すぎるとして断念している。
同じ16歳のとき、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』を読んで宇宙に関心を持った。1899年10月19日、17歳のときにサクランボの木に登って空を見上げ、火星に届く装置をつくることを想像し、降りたときには別の人間になったと後に書いている。この日は生涯、私的な記念日となった。若いころは胃の不調や胸膜炎、気管支炎に悩まされ、学業が同級生より2年遅れた。熱心な読書家で、図書館に通って物理学の本を借りた。ウースター工科大学を卒業し、クラーク大学で博士号を取得して、1912年にプリンストン大学の研究員に採用された。1914年までにスミソニアン協会の財政援助を受けてロケット・モーターの設計に取り組み、1919年には月飛行の可能性について執筆した。
1926年3月16日、マサチューセッツ州オーバーンで最初の液体燃料ロケットを打ち上げた。日記には、液体推薬を使うロケットの最初の飛行が「昨日エフィーおばさんの農場で行われた」と簡潔に記した。「ネル」と名づけたロケットは人間の腕ほどの大きさで、2.5秒間に41フィート上昇し、液体燃料推進の可能性を示した。1929年の実験では野次馬が集まって消防署に通報される騒ぎとなり、地方紙は「月ロケットは目標を失った」と、失敗して空中で爆発したかのように報じた。実際には予定の高度に達して成功していたが、これをきっかけにマサチューセッツ州内での発射実験を禁じられた。ニュースでロケット研究に興味を持ったチャールズ・リンドバーグの推薦で新たな資金援助を得て、ニューメキシコ州ロズウェルに実験場を移した。
第二次世界大戦が始まるとアメリカ海軍のためにも研究したが、海軍はその価値を理解せず、採用されたのは艦載機を短い滑走で発艦させる補助ロケットだけだった。喉頭癌を発病し、1945年8月10日に62歳で死去した。考案した特許は214にのぼるが、ほとんどは死後に与えられ、1960年に政府はすべてを未亡人から100万ドルで買い取った。研究は時代を先取りしすぎていたため、同時代人から嘲笑された。1920年の論文でロケットは真空でも推進できると主張すると、ニューヨーク・タイムズ紙は高校で習う知識がないようだと酷評した。他人を信用しなくなり、研究は単独で続けた。1959年設立のゴダード宇宙飛行センターは彼の名にちなむ。1969年、アポロ11号の月着陸の前日に、同紙は49年前の社説を撤回した。
同じ年に亡くなった人物
- ロベルト・ライ (1945年没)
- ヴィオレット・サボー (1945年没)
- ドブリ・ボジロフ (1945年没)
- フリードリヒ・ツー・ヴィート (1945年没)
- フローレンス・バスカム (1945年没)
同じ地域に関係する人物
- ウッディ・ソウルズベリー (2007年没)
- A・C・クリスピン (2013年没)
- ウォルター・エルサッサー (1991年没)
- マーガレット・デイホフ (1983年没)
- ポーリーン・ベッツ (2011年没)