HISTORICAL PERSON · 1945年没

ヴィルヘルム・カナリス

ドイツの海軍大将。国防軍情報部の部長としてヒトラーを補佐する一方、ヒトラー暗殺計画を含む反ナチス運動に関与していたことが発覚して処刑された。

生涯
1945年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / フロッセンビュルク強制収容所)
出生地
ドイツ連邦共和国(アプラーベック)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

ヴィルヘルム・フランツ・カナリスは、1887年1月1日、プロイセン王国のドルトムント郊外に、実業家カールとアウグスタ夫妻の末子として生まれたドイツの海軍軍人で、最終階級は海軍大将である。父はルール地方で鋼鉄産業に携わる裕福な実業家であった。1892年に一家はデュッセルドルフ、同年にデュースブルクへ移り、カナリスもそこで育った。ギムナジウムに通っていた1905年4月1日、騎兵隊への入隊を望む父や家族の反対を押し切り、士官候補生として海軍に入営した。ギリシア独立戦争の英雄コンスタンティノス・カナリス提督が縁戚だと信じていたことも、動機の一つであった。1910年に海軍中尉となり、1913年から防護巡洋艦ドレスデンの艦長の副官を務め、この立場で第一次世界大戦を迎えた。

ドレスデンは、コロネル沖海戦でイギリスの軽巡洋艦グラスゴーと交戦し、フォークランド沖海戦では唯一生き残った艦となった。しかしチリ沖のマス島で、機関の酷使により動けなくなったところをグラスゴーに攻撃され、艦長は自沈を決めた。語学に堪能なカナリスは、準備の時間を稼ぐため、交渉のふりをしてグラスゴーへ送られ、時間稼ぎに成功して、ドレスデンは自沈した。乗組員は全員チリ当局に拘束されたが、カナリスは1915年8月初めに収容所から脱走した。チリ人のパスポートを手に入れ、真冬のアンデス山脈を越えてアルゼンチンに至り、イギリス船に乗り込み、中立国オランダを経て、10月にハンブルクへ戻った。この脱走劇が高く評価され、同年11月に海軍大尉に昇進し、スペインへ派遣された。偽名で工作を開始し、Uボートの秘密補給基地を築いた。スペイン滞在中に、後の独裁者フランシスコ・フランコと親しくなっている。1917年から終戦までは、Uボートに勤務して、艦長となった。

戦後はヴァイマル共和政に反対し、義勇軍に参加した。1919年にエリカ・ヴァークと結婚して、二人の娘をもうけた。1923年には小型巡洋艦ベルリンの艦長となり、海軍に入ったばかりのラインハルト・ハイドリヒと知り合い、引き立てて海軍士官学校へ進ませた。ハイドリヒは1931年に女性問題で海軍を不名誉除隊した。カナリスは1933年のヒトラー政権の成立を、賛意を持って迎えた。1934年には戦艦シュレジエンの艦長となり、1935年に国防軍情報部の部長に任じられた。ハイドリヒと親交があり、親衛隊と無用に対立しないと見られたことが、大きな理由であった。二人の家は隣り合って家族ぐるみの付き合いをしたが、個人的には嫌悪と不信があった。1942年のハイドリヒの葬儀では涙を見せている。

1936年には日独防共協定の成立に尽力した。グライヴィッツ事件の工作には、うまく理由をつけて参加を拒否した。1937年には、陸軍大佐の大越兼二と、ナチスに知られないよう対ソ戦争を研究し、対ソ戦は日独ともに国を滅ぼすと結論した。しかし、ヒトラーが戦争も辞さない外交を進めるにつれ、疑念を深め、暗殺とクーデターを計画していた部下のハンス・オスターらに協力した。1944年2月に解職され、7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の3日後に逮捕された。敗戦直前の1945年4月、国防軍情報部の金庫から反逆を示す文書が見つかり、ヒトラーは処刑を命じた。4月9日、フロッセンビュルク強制収容所で、ボンヘッファーやオスターとともに絞首刑に処された。数百人のユダヤ人やラビを中立国へ逃がしたともされるが、行動には謎が多い。

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