伝記
マックス・ヴェーバーは、1864年4月21日に生まれ、1920年6月14日に没したドイツの社会学者、政治学者、経済史・経済学者である。正式な名前はマクスィミーリアン・カール・エーミル・ヴェーバーという。弟は社会学者のアルフレート・ヴェーバーである。デュルケームやジンメルなどと並んで、社会学の第二世代とされる。
プロイセン王国のエアフルトで、政治家の父と、上流階級出身の敬虔なプロテスタントの母の間の長男として、裕福な家庭に生まれた。2歳のとき脳膜炎にかかり、華奢で弱い体に不釣り合いな大きな頭をしていた。1869年にベルリンのシャルロッテンブルクに引っ越した。並外れて早熟で、12歳でマキャヴェッリの『君主論』を読み、哲学書ではスピノザ、ショーペンハウアー、カントに進んだ。15歳のとき、資料を集めて歴史論文を書いた。1882年からハイデルベルク大学で法律学、ローマ法、国民経済学、哲学、歴史を学び、学生組合に参加して、決闘やフェンシングの訓練をし、仲間とビールを飲み歩いて、痩せていた体が太り気味になった。のちにシュトラスブルク大学、ベルリン大学、ゲッティンゲン大学でも学んだ。1883年にシュトラスブルクで1年間の軍隊生活を送り、将校任官試験を最優等で合格した。1886年に司法試験に合格し、1887年から1891年まで、裁判所に勤務しながらベルリン大学で学究生活を続けた。
1889年、中世の商事会社の史にかかわる論文で法学博士の学位を取得し、審査を傍聴したモムゼンから、「息子よ、私の槍を持て」という祝辞を送られた。さらに農業史の論文で商法とローマ法の教授資格も得、1892年にベルリン大学の私講師となった。同年、社会政策学会が企画した農業労働者調査の東エルベの部分を委嘱され、報告書を刊行した。1893年にマリアンネ・シュニットガーと結婚し、翌1894年に30歳でフライブルク大学の経済学正教授として招聘された。1895年の教授就任講演「国民国家と経済政策」は、大きな反響を引き起こした。1896年にハイデルベルク大学に招かれたが、1898年に、実父との確執とその直後の死によって神経を病み、休職して療養に入った。病気は長引き、1903年に教職を辞して名誉教授となった。
1904年に学問活動を再開し、この年から翌年にかけて「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を発表した。西洋近代の資本主義を発展させた原動力は、カルヴィニズムの宗教倫理から生まれた世俗内禁欲と生活合理化であるとし、大きな反響と論争を引き起こした。同年、アメリカに旅行し、ゾンバルトらと『社会科学・社会政策雑誌』の編集を始めた。1910年に『経済と社会』に含まれる論文の執筆を始め、翌年には『世界宗教の経済倫理』の執筆を開始した。「儒教と道教」「ヒンドゥー教と仏教」「古代ユダヤ教」などを発表したが、壮大な研究計画は未完に終わった。「合法的支配」「伝統的支配」「カリスマ的支配」の三つの類型、「理解社会学」「理念型」「価値自由」の提唱も大きな業績である。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、陸軍野戦病院で軍役につき、1日13時間働いた。1918年にドイツ革命が起こると、ナウマンらとドイツ民主党を結党したが当選しなかった。1919年1月に「職業としての政治」を講演し、ミュンヘン大学の講義を受け持った。1920年6月14日、ミュンヘンで、56歳で死去した。死因は肺炎で、当時流行したスペイン風邪とされる。
同じ年に亡くなった人物
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