伝記
ロバート1世は、スコットランド王(在位1306年〜1329年)で、ロバート・ブルースの名でも知られる。1274年7月11日に生まれ、1329年6月7日に没した。父方の祖先はノルマンディーのブリーを出自とする家系で、母方はフランス・ゲール人の家系だった。イングランドに対する独立戦争でスコットランドを率い、最も偉大なスコットランド国王の一人、その世代で最も知られた戦士の一人となった。今日のスコットランドでは国民的英雄として記憶されている。
彼は、のちに第6代アナンデイル卿となるロバート・ドゥ・ブルースと、キャリック女伯マージョリーの長男として生まれた。母は誰からも畏怖された女傑で、伝説では、自分との結婚に同意するまでロバートの父を拘禁したという。母方からゲールのキャリック伯位を、父方からはデイヴィッド1世の血を引く者としてスコットランド王位を請求しうる血筋を受け継いだ。生まれた日付は知られているが、生誕地ははっきりせず、おそらくエアシャーのターンベリー城だろうと推測されている。幼いころのことはあまり知られておらず、父方の言語がフランス語、母方の言語がゲール語で、双方の文化の中で育ったと思われる。1292年に母が亡くなり、18歳でキャリック伯を継承した。
1290年にスコットランドの王家が絶えると、13人もの王位請求者が乱立した。祖父の第5代アナンデイル卿ロバートもその有力な一人だった。調停に入ったイングランド王エドワード1世は、1292年11月にジョン・ベイリャルに王位を授けた。その直後、祖父はアナンデイル卿の地位と王位請求権をロバートの父に譲ったが、ジョンに臣下として忠誠を誓うのを避ける意図だったとみられる。ブルース父子は、ジョンを簒奪者と見なして忠誠を誓わなかった。1295年にはマー伯の娘イザベラと最初の結婚をした。
その後のロバートの動きは、たびたび揺れた。1296年8月にはエドワード1世に臣従を誓ったが、その宣誓を破棄し、翌年にはスコットランドの反乱を支援した。1297年7月にはアーヴァインの降伏という条約でエドワード1世と妥協した。ウィリアム・ウォレスの後には、ジョン・カミンと共同の守護者を務めたが、二人は意見が合わず、ベイリャルの甥にあたるカミンとは敵対関係にあった。1300年には守護者の地位を辞した。1302年ごろ、アルスター伯の娘と再婚し、デイヴィッドら4人の子をもうけた。1304年には、ウィリアム・ランバートンと友好と同盟の秘密協定を結んだ。スコットランドの指導者の多くがイングランドに降伏していた時期で、この協定は、彼の深い愛国心の表れと一般に解釈されている。
こうして、彼はキャリック伯にしてアナンデイル卿となり、広大な領地を持つ、王位請求の最有力者になった。しかし、請求すれば国内の争いに身を投じ、失敗すれば全てを失う。エドワード1世は彼を完全には信頼しなかった。死後、遺体は別の地に埋葬されたが、心臓はメルローズ修道院に葬られていると信じられている。副官で友人のジェームズ・ダグラス卿は、保存された心臓を十字軍で聖地へ運ぶことに同意したが、ムーア人のグラナダにしか到達できなかったという。伝承では、ダグラスが戦いで命を落としたとき、心臓は銀の箱に入れて運ばれていた。
同じ年に亡くなった人物
- Michael of Imereti (1329年)
- ハインリヒ2世 (メクレンブルク領主) (1329年)
- カザーレのウベルティーノ (1329年)
- コシラ (1329年没)
- ワッサーフ (1329年)
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