HISTORICAL PERSON · 1328年没

久明親王

鎌倉幕府第8代征夷大将軍。前将軍惟康親王の京送還に伴い就任し、朝廷内の持明院統優位の情勢や幕府内の政争が背景にあったとされる。

生涯
1328年没
死亡地
律令日本(京都府 / 平安京)
出生地
律令日本(平安京)
出典
世界地図
律令日本(京都府)

伝記

久明親王は、鎌倉幕府の第8代征夷大将軍である。後深草天皇の第七皇子で、母は三条公親の娘三条房子、伏見天皇の弟にあたる。一二七六年に生まれたとされる。母の身分が低かったために、長いあいだ親王宣下を受けられなかった。

一二八九年九月、従兄にあたる前将軍の惟康親王が京へ送り返されたことで、征夷大将軍に就くことになった。惟康が将軍を解任された理由は分かっていない。二年前に兄の伏見天皇が即位して後深草院政が成立し、この年の四月には甥の胤仁親王(のちの後伏見天皇)が皇太子に立てられていた。そうした持明院統の優位を固めるなかで、同じ系統から将軍を出すことを望んだ結果とする説がある。一方、幕府の側の事情とする説もあり、霜月騒動で安達泰盛を滅ぼした平頼綱が、朝廷の改革を進めた大覚寺統の亀山上皇を危険視し、惟康の二人の妹が後宇多天皇の後宮に入っていたことから、惟康も大覚寺統に近いとみなされたというのである。将軍就任が決まって、十月一日に親王宣下、六日に元服、九日に将軍宣下が行われ、十日には鎌倉に向けて出発した。鎌倉から久明を迎える役を務めたのは、頼綱の次男の飯沼資宗である。資宗は上洛の前後に、御内人としては異例の検非違使に任じられ、軍勢を率いて上皇の御所などを訪れて権勢を見せつけた。将軍宣下は、家格を高める示威に利用されたのである。

鎌倉に下った当初の幕政は、頼綱による「恐怖政治」の体制だった。四年後、平禅門の乱で頼綱と資宗の親子らが滅び、得宗の北条貞時が主導権を握り続けたが、体制がどう変わっても将軍は名目上の存在にすぎなかった。そのため在職中の業績は特にない。ただ、冷泉為相を和歌の師とした久明は鎌倉歌壇の中心となって歌合を催し、貞時も久明の邸で何首かの和歌を詠んでいる。久明自身の歌も、『新後撰和歌集』『玉葉和歌集』『続千載和歌集』など八つの勅撰集に二十二首が収められた。一二九五年には惟康の娘の中御所を正室に迎え、これにより惟康と久明のあいだに形式のうえで世襲の関係が生まれた。一二九七年には一品に叙され、式部卿に任じられた。一三〇一年に中御所が後継者となる守邦親王を産んだが、一三〇六年七月、流産のために亡くなった。

一三〇八年八月、久明は貞時によって将軍職を廃され、京に送られて出家した。代わって八歳の守邦親王が将軍となった。その理由や経緯は伝わっていない。三年前の嘉元の乱の発端となった北条時村の殺害が、形のうえで将軍の命によるとされており、混乱を収める一環として将軍を替え、後継者の北条高時への憂いを除くためともされる。また、持明院統による将軍の世襲を既成事実にするためともいう。

鎌倉幕府の皇族将軍は、先々代の宗尊親王も先代の惟康親王も、追い出されるように京へ送られていた。久明の場合は、京に戻ったあとも幕府との関係は穏やかだったらしい。一三二八年に五十三歳で亡くなると、幕府は五十日間、政務を停止し、翌年の正月には鎌倉で百か日の法要が営まれた。子には守邦親王のほかに、冷泉為相の娘との間の久良親王があり、その次男は臣籍に降りて源宗明と名乗り、従一位権大納言にまで昇った。鎌倉幕府の滅亡後に天台座主となった聖恵も、久明の子とする説がある。

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