伝記
ロマン・ロランは、1866年1月29日、フランス中部ニエーヴル県のクラムシーに生まれた小説家、評論家である。父エミールは公証人で、母の家系も公証人だったため、貧しい環境ではなかった。7歳からクラムシーの中学校に通ったが、1880年に一家はパリに転居した。1881年からサン=ルイ高等中学校に入り、1882年の夏にスイスのヴィルヌーヴで偶然ヴィクトル・ユーゴーと出会って、深い感銘を受けた。級友のポール・クローデルと音楽会に通い詰めたのもこのころである。1886年に2年遅れで高等師範学校へ進み、哲学と歴史を学びながら、文学、美術、音楽に没頭してピアノも嗜んだ。1887年にはトルストイの『戦争と平和』を読み、トルストイと文通までしている。1889年に卒業と同時に歴史の教授資格試験に合格し、1891年までローマのフランス学院に留学した。ここでドイツの女流作家マイゼンブークと知り合い、彼女を介してニーチェやワーグナーに関心を持った。
1892年に言語学者ブレアルの娘クロチルドと結婚したが、1901年に離婚した。1895年に『近代叙情劇の起源』などで文学博士の学位を取り、高等師範学校の芸術史講師となって、戯曲や音楽評論を発表し始めた。1903年、教え子のペギーが創刊した雑誌『半月手帖』に『ベートーヴェンの生涯』を発表して反響を呼び、翌1904年にソルボンヌで音楽史を担当するとともに、ベートーヴェンをモデルにした大河小説『ジャン・クリストフ』の連載を始めた。この作品は1912年に脱稿し、文学に専心するためソルボンヌを辞して、1913年にアカデミー・フランセーズ文学大賞を受賞した。
1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、偶然滞在していたスイスから、仏独両国に「戦闘中止」を訴えた。これが祖国への反抗と受け取られて帰国できなくなったが、アインシュタインやヘッセらと意を通じ合うことになった。国際的に評価される一方で、母国で好感されない傾向は生涯に及んだ。1916年に1915年度のノーベル文学賞を受賞している。ヴェルサイユ条約には極めて批判的で、日記に「悲しき平和よ!民衆の二つの殺戮にはさまれた馬鹿げた幕間!」と書きつけ、再び大戦に見舞われることを予測していた。1917年にロシア革命が起こると早くも支持を表明し、ソビエト連邦や共産党への共感を鮮明にした。1922年には、父と妹とともにスイスのヴィルヌーヴに定住し、1923年に雑誌『ユーロープ』の創刊に参加した。ムッソリーニのファシスト党による暴行を非難し、バルビュスとともに反ファシズム国際委員会を結成して、1932年に国際反戦会議の開催を呼びかけた。1931年にはガンジーが来泊し、満州占領については日本を非難した。1933年にはヒンデンブルクが授与するゲーテ賞を拒否した。
1934年に秘書のマリー・クーダチェヴァと再婚し、翌年に夫妻でソ連を訪れてスターリンとも会見したが、独ソ不可侵条約を機にソヴィエト友好協会を脱会した。1936年にはパリで生誕70年の祝賀会が催された。1938年にスイスからフランスへ帰国し、故郷に近いヴェズレーを終生の住処とした。第二次世界大戦中はナチス占領下で沈黙を強いられたが、1943年から病床につき、1944年のパリ解放を知ると、ソヴィエト大使館の祝賀会に出席した。同年12月30日に永眠し、故郷クラムシーで葬儀が行われた。日本でも、高田博厚ら多くの人々が交流し、「ロマン・ロラン友の会」が作られた。
同じ年に亡くなった人物
- ワシリー・カンディンスキー (1944年没)
- ヴェッセル・フライターク・フォン・ローリングホーフェン (1944年没)
- フリードリヒ・オルブリヒト (1944年没)
- フローレンス・フォスター・ジェンキンス (1944年没)
- Mehmed Abdulkadir Efendi (1944年没)
同じ地域に関係する人物
- アルベール・カミュ (1960年没)
- リシャール (ブルゴーニュ公) (921年没)
- エティエンヌ・ジルソン (1978年没)
- マルゲリータ・ディ・ボルゴーニャ (1308年没)
- アンリ・アルピニー (1916年没)