HISTORICAL PERSON · 1944年没

グレン・ミラー

アメリカのジャズ奏者、バンドリーダー。1937年に自らの楽団を結成し、「ムーンライト・セレナーデ」「イン・ザ・ムード」などを次々とヒットさせた。

生涯
1944年没
死亡地
フランス共和国(ジャージー / イギリス海峡)
出生地
アメリカ合衆国(クラリンダ)
出典
世界地図
フランス共和国(ジャージー)

伝記

オルトン・グレン・ミラーは、1904年3月1日に生まれ、1944年12月15日に行方不明となったアメリカのジャズミュージシャンである。トロンボーン奏者、作曲家、編曲家、バンドリーダーで、カウント・ベイシーやベニー・グッドマン、デューク・エリントンらとともに、スウィングジャズ、ビッグ・バンド・ジャズを代表する存在に挙げられる。

アイオワ州クラリンダで、母マティ・ルーと父ルイス・エルマー・ミラーの子として生まれた。父やきょうだいと同じく、ミドルネームのグレンで呼ばれ、高校時代にグレンの綴りに文字を一つ加えた。ドイツ系アメリカ人で、ネブラスカ州西部ノースプラットの小学校に通った。1915年に家族でミズーリ州グラントシティに移住し、牛の乳搾りで稼いだ金で、最初のトロンボーンを買った。町のオーケストラで演奏し、コルネットとマンドリンも吹いたが、1916年までにトロンボーンに絞った。1918年にコロラド州フォートモーガンに移り、高校のフットボール部で活躍し、1921年にはコロラドで最優秀の左エンドに選ばれた。高校の卒業アルバムの編集にも2年間携わった。高校の最終学年には、ダンス音楽に熱中して同級生とバンドを結成した。1923年にコロラド大学ボルダー校に進学したが、ほとんど行かずに中退し、ニューヨークでプロのトロンボーン奏者として音楽の道に進んだ。だが売れずに目立たない時代が続いた。やがてトミー・ドーシーやベニー・グッドマンらの音楽家と親交を結び、1937年に自らの楽団「グレン・ミラー楽団」を結成した。1938年にRCA傘下のブルーバード・レコードと契約し、翌1939年から「ムーンライト・セレナーデ」「茶色の小瓶」「イン・ザ・ムード」「チャタヌーガ・チュー・チュー」と次々にヒット曲を発表して、人気を博した。1939年から1942年までは、最も売れたレコーディング・バンドであった。

ビルボードのジュークボックス・チャートでは、「イン・ザ・ムード」など3曲で、1940年2月10日付から8月3日付まで26週連続で1位を達成した。1941年に録音された「チャタヌーガ・チュー・チュー」は、楽団が出演した映画の主題歌で、レコードはおよそ120万枚が売れた。これを記念して1942年にRCAレコードからゴールドディスクが授与され、第1号のゴールドディスクとされる。

第二次世界大戦の勃発にともない、1942年に志願して陸軍航空軍に入隊し、慰問楽団を率いて演奏した。その軍の楽団は、ビッグ・バンドに弦楽器の部門を加えた編成で、後の多くの軍楽隊の先駆となった。精力的に慰問演奏を続けたが、大戦末期の1944年12月15日、イギリスからフランスへ慰問演奏に飛び立った後、乗っていた専用機がイギリス海峡上で消息を絶った。最終階級は少佐である。原因については、帰還途中の爆撃機が投棄した爆弾が乗機に当たったとする説や、イギリス軍機の誤射とする説などがある。2014年にシカゴ・トリビューン紙は、乗機の型式にエンジンのキャブレターの欠陥があり、冬季に凍結して故障し、墜落する事例が他にも複数あったという説を挙げた。爆弾が命中したとする説は、当時の飛行記録に爆弾を投棄した記述がないことから、可能性が低いともしている。遺体は見つからず、アーリントン国立墓地に記念の墓石が置かれた。1945年2月には、死後にブロンズスター勲章を贈られた。残された楽団員がリーダーとなり、楽団は現在まで世界各地で活動している。

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