伝記
エルンスト・テールマンは、1886年4月16日、ドイツ帝国の自由都市ハンブルクで、雑貨商ヨハネス・テールマンとその妻マグダレーナの息子として生まれた。1892年から1893年にかけて両親が横領罪で1年の懲役を受けたため、里親のもとで過ごした。1893年から1900年までハンブルクの小学校で学び、その後は家業を手伝った。1903年にドイツ社会民主党に入党し、1904年から1915年まで港湾や造船所、倉庫の労働者、蒸気船の火夫、馬車引きなど職を転々としながら、運輸労働者の組合で活動した。1913年にはローザ・ルクセンブルクのストライキの呼びかけを支持している。第一次世界大戦中の1915年1月に召集令状を受けたのを機に靴屋の娘と結婚し、一人娘を得た。1915年から1918年まで西部戦線に従軍し、二級鉄十字章などを受けた。1918年10月に帰国し、ドイツ革命のさなかの11月に独立社会民主党に入党して、頭角を現した。
1920年に独立社民党がコミンテルンへの参加をめぐって分裂すると、参加派とともに同年12月に共産党と合流し、合同党大会で中央委員に選ばれた。1921年3月の武装蜂起が鎮圧されて失敗すると、党指導部はその弁明のため、「学のないテールマン」を6月から7月の第3回コミンテルン大会の代表として送り、彼はそこでレーニンと初めて会った。党内では、ルート・フィッシャーらと並ぶ左派の代表的な人物で、社民党は断固として粉砕すべきだとする立場だった。1923年10月には中部ドイツから革命の軍事行動を起こす計画が立てられたが、ベルリン政府がザクセン政府の解任を宣言して国防軍を出動させたため、共産党は退却を余儀なくされた。ケムニッツの会議で蜂起は見送りとされたが、会議室から出てきたテールマンが独断で伝令たちを走らせた。多くはブランドラーが駅で引き留めたものの、ハンブルクへの伝令だけは間に合い、数百人の共産党員が蜂起したが、警察にただちに鎮圧された。
左派は敗北の原因を指導部の右派的方針に求め、1924年2月にはテールマンがブランドラーを激しく攻撃して、指導部は入れ替えられた。彼は政治局入りして党の副議長となり、同年5月に国会議員に当選し、コミンテルンの執行委員にも選ばれた。1924年から1929年には党の武装組織「赤色戦線戦士同盟」の議長も務めた。1925年の大統領選に出馬したが、ヒンデンブルクとマルクスの一騎討ちとなり、泡沫候補に終わった。同年秋、スターリンから忠誠を疑われたフィッシャーらが失脚すると、スターリンに絶対の忠誠を誓う左派派閥の指導者となり、その後援を受けて、1925年10月に党議長に就任した。
1928年、ハンブルクの党幹部が公金を横領し、テールマンがそれをもみ消したとして、中央委員会が彼に有罪を下して職務停止を決議したが、スターリンが介入して復権が決まり、右派と調停派は逆に中央委員会から追い出された。1929年6月の党大会までに、党はスターリン主義の独裁政党となり、個人崇拝も進んだ。第6回コミンテルン大会の「社会ファシズム論」に従い、社民党を主敵と定めて闘争を強化し、赤色戦線戦士同盟はナチスの突撃隊などと武力衝突を繰り返した。世界恐慌後に党の人気は高まり、1930年9月の総選挙では13.1パーセントを得て77議席を獲得し、第3党となった。しかし1933年にナチ党が政権を掌握すると逮捕され、1944年8月18日、ブーヘンヴァルト強制収容所で殺害された。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィクトル・ウルマン (1944年没)
- アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ (1944年没)
- ハンス・クラーサ (1944年没)
- オットー・フォン・ベロウ (1944年没)
- アーサー・ブレイク (1944年没)
同じ地域に関係する人物
- 大ドルスス (紀元前9年没)
- ヨハン・ネポムク・フンメル (1837年没)
- ベルトルト・デルブリュック (1922年没)
- エレオノーレ・ドロテア・フォン・アンハルト=デッサウ (1664年没)
- フリードリヒ3世 (ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公) (1772年没)