伝記
マニュエル・ルイス・ケソン・イ・モリーナは、1878年8月19日、フィリピンのバレル(現在のアウロラ州)で生まれた弁護士・政治家で、コモンウェルス(独立準備政府)の初代大統領である。両親はいずれも小学校の教師で、父ルシオは植民地の憲兵隊の退役軍曹でもあった。ある歴史家によれば、父は中国系の混血で、マニラのパコから来た人物であり、母マリア・ドロレスはスペイン系の混血で、スペイン人司祭の血を引く。ケソンという姓は、福建語の姓がスペイン語風につづられたものとされる。サン・フアン・デ・レトラン学院で学び、1894年に中等教育を修めた。1898年には、父と兄のペドロが、バレルへ向かう途中、官吏を装った山賊に殺された。
1899年、サント・トマス大学の法学部を中退して、アメリカに対するフィリピンの独立戦争に加わり、エミリオ・アギナルドの副官となった。少佐に昇進し、バターンの戦線で戦ったが、1900年に降伏し、大学へ戻った。1903年に司法試験に合格し、弁護士として1年間活動したのち、書記や測量士を経て、ミンドロ島や故郷タヤバスの財務官として公職に入った。1905年にタヤバス州知事選に当選して2年間務め、1907年の第一回総選挙には、即時独立を求める国民党から出馬して国民議会議員となり、与党院内総務を務めた。
1909年にはフィリピンの駐米委員(常駐委員)に選ばれ、定数71票のうち61票を得て圧勝した。同年12月にワシントンに着いたが、英語に不慣れだったため家庭教師を雇い、スペイン語・英語の辞書で独習した。アメリカの友人たちからは「ケーシー」と呼ばれた。1916年までの二期をこの職で務め、将来の独立を盛り込んだフィリピン自治法(ジョーンズ法)の成立のために働いた。その功績を背景に、同年成立した二院制議会の上院議長に就いた。1918年、いとこのオーロラ・アラゴンと香港で結婚し、4人の子をもうけた。
1935年に新憲法が国民投票で批准され、総選挙でコモンウェルスの大統領に選ばれた。選挙では、かつての指導者アギナルドを破っている。在任中は土地を持たない農民の問題や、島々の防衛の再編、ミンダナオの入植と開発、農地改革の提案、政府内の汚職の追及などに取り組んだ。1937年2月、アメリカ訪問の途上で日本に立ち寄り、2月1日に昭和天皇に拝謁して午餐を受けた。この年にタガログ語を国語と定めたことから、「フィリピン語の父」と呼ばれる。ケソン市は彼の名に由来する。
1941年に大統領に再選されたが、同年12月8日、日本軍は太平洋戦争の開始とともにマニラ市街地とアメリカ軍の航空施設を爆撃し、12月10日以降に上陸作戦を行った。12月26日、ケソンはマッカーサーの勧告に従い、政府をマニラから移すと声明した。1942年に渡米して亡命政府を樹立し、フィリピンの完全な独立を見ないまま、1944年8月1日、ニューヨーク州で持病の肺結核のため亡くなった。遺骸は一時アーリントン国立墓地に葬られ、戦後の1946年にケソン市のケソン・メモリアル・サークルへ改葬された。1967年以降、20ペソ紙幣に肖像が使われている。
同じ年に亡くなった人物
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- ルネ・ドーマル (1944年没)
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