伝記
アブデュルメジト2世は、1868年5月29日にイスタンブールのドルマバフチェ宮殿で、オスマン帝国第32代皇帝アブデュルアズィズの息子として生まれた。イスラム世界で承認された最後のカリフである。母はハイラニディル妃で、幼い時期はフェリイェ宮殿で過ごし、のちにチャムルジャの宮殿に移った。私的な教育を受け、4歳で砲兵の授業に加わったことを誇りにしていた。8歳ごろ、1876年の政変のあとに父が自殺か他殺で亡くなった。本人は他殺だったと信じ、自殺だと考える人々には不快感を示したという。運動を好み、がっしりした体格だったとされ、イスタンブールで馬術の名手といえばハイダル・ベイ、義兄のハリド・パシャ、そして自分だと考えていた。従兄のメフメト・ヴァヒデッディンとは狩りに出かけ、帰りには夜まで楽団の演奏を聴いた。
若いころから芸術に関心を示し、その邸宅は、イスタンブールの芸術家や音楽家のサロンのようになっていた。三、四楽章の室内楽曲を作曲して妻や侍女、弟子に演奏させ、自らも画家として写実的な絵画を発展させ、ピアノにも秀でていた。青年トルコ人革命ののちに軟禁から解かれると、オスマン芸術家協会を援助した。文学にも関心を持ち、1920年にはピエール・ロティ協会を設立して、その作品をトルコ語に訳して広めようとした。4人の妃と結婚し、1男1女の父となった。1918年7月4日、従兄のメフメト6世が第36代皇帝として即位するのと同時に、皇太子となった。
イギリスの情報機関は彼を、人望のある穏健な人物で、フランス語の雄弁な人と報告した。民族主義者への共感はよく知られていたが、同時に親英的で、息子に英国人の家庭教師をつけていた。ムスタファ・ケマル(アタテュルク)は、民族運動の先頭に立つようアブデュルメジトを誘った。皇太子は初めは心を動かされたが、数日のあいだ信頼できる友人たちと相談した結果、自分が寝返れば多くの流血と王家の不安定を招くと考え、応じなかった。1920年9月7日には、オスマン政府の警察がドルマバフチェ宮殿の彼の住まいを封鎖し、外界との補給や連絡を断った。6歳の娘が百日咳にかかっていたが、薬も医者も許されなかった。この封鎖は大宰相ダマト・フェリト・パシャが、皇太子がヨットでアナトリアへ脱出しようとしていると主張し、イギリスの圧力を受けて行ったもので、封鎖はさらにひと月ほど続き、イギリスの仲介でようやく解かれた。皇太子は従兄のスルタンに痛烈な手紙を書き、二人のかつての親しい関係は事実上終わった。
トルコ革命の結果、1922年11月1日にメフメト6世が廃位され、トルコ大国民議会は11月19日に皇太子アブデュルメジトをカリフに選出した。皇帝の地位は、世俗の支配者パーディシャーと宗教指導者カリフが一体となったものだったが、前者を廃し、後者のみを彼が継承したことになる。芸術家肌の教養人で、世俗の権力にはまったく興味がなかった。1923年10月29日にトルコは共和政を宣言し、ムスタファ・ケマルが初代大統領に就任した。政教分離を採用した共和国により、1924年3月3日にオスマン家の一族とともに国外に追放された。1944年8月23日、連合国軍によるパリ解放の前日に、亡命先のパリの自宅で亡くなり、サウジアラビアのメディナに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィータウタス・マチェルニス (1944年没)
- ガレアッツォ・チャーノ (1944年没)
- アレクセイ・ノビコフ=プリボイ (1944年没)
- リヒャルト・ゾルゲ (1944年没)
- アウグスト・ランドメッサー (1944年没)
同じ地域に関係する人物
- アンリ・ドロネー (1955年没)
- ラ・クレロン (1803年没)
- オルガ・ティス・エラザス (1903-1997) (1997年没)
- シャルル・ド・ロアン (スービーズ公) (1787年没)
- Claude de Vin des Oeillets (1687年没)