伝記
アユルバルワダは、1285年4月9日に生まれたモンゴル帝国の第8代カアンで、元としては第4代皇帝にあたる。廟号は仁宗、称号は「ブヤント(福あるもの)・カアン」という。名は梵語の「長寿の山」に由来する。クビライのひ孫にあたる。父は成宗テムルの早世した兄ダルマバラ、母は有力部族コンギラト出身の妃ダギで、その次男として生まれた。兄に武宗カイシャンがいる。十代の初めから儒学者の李孟に学び、この師は将来の政治的な考え方に強い影響を与えた。
叔父のテムルが即位すると、兄弟は有力な後継者候補だったため、テムルの皇后ブルガンによって首都の大都から遠ざけられ、母ダギとともにダルマバラ家の所領だった懐州に押し込められた。1305年には懐寧王として河南へ出されたという。1307年にテムルが崩御すると、ブルガンは兄弟の即位を避けるため、安西王アナンダを密かに呼び寄せてカアンにしようとした。しかしコンギラト派の重臣たちはアユルバルワダとダギを大都へ呼び寄せ、アユルバルワダを担いでクーデターを起こし、ブルガンとアナンダを捕らえた。重臣たちはアユルバルワダをカアンにしようともくろんだが、モンゴル高原にいた兄カイシャンが大軍を率いて南下してきたため、アユルバルワダはあくまで摂政と称して兄を迎え入れた。カイシャンが即位し、アユルバルワダは皇太子となった。兄弟は、互いの子孫が順に帝位を継ぐと約束したという。
カイシャンのもとでは、中書省の長となった。趙孟頫ら漢人の学者や芸術家を周囲に集め、漢文の読み書きができ、中国の絵画や書も味わった。儒学の政治倫理に強く影響されていたため、兄の搾取的な政策には批判的だったが、その不一致は即位まで表に出なかった。兄の側近は、李孟がアユルバルワダに皇位を手放さないよう勧めたと訴えており、李孟は兄の即位直後に宮廷を去っていた。
1311年にカイシャンが亡くなると、4月にアユルバルワダが即位した。この継承は平穏で、元の歴史でも円滑な交代だった。たちまち、1307年のクーデターで活躍した母ダギとコンギラト派の重臣が政権を握った。カイシャンの腹心の重臣は汚職の疑いで追放され、高官5人が処刑された。財政優先の体制の中心だった尚書省が廃止され、唯一の中央官庁となった中書省の右丞相には、ダギの寵臣テムデルが就いた。カイシャン時代の新紙幣である至大銀鈔は廃止され、クビライ時代の至元鈔に戻された。商業税の徴収は強化されたが、抜本的な改革は行われなかった。この治世が後世に名を残したのはむしろ文化的な政策で、『貞観政要』がモンゴル語に訳されて全国に配られ、漢文の法典の編纂が始まった。漢人・非漢人を問わず儒学の素養のある知識人が政府に集められ、1315年には、合格者がきわめて少ないという限定付きながら、科挙が復活した。
しかし、テムデルと皇太后ダギの権勢はカアンの権力をまったく上回り、カアンの聖旨(ジャルリグ)よりも皇太后の懿旨(ウゲ)が権威を持つといわれるほどだった。このためアユルバルワダは宮廷に籠もりがちになった。晩年には御史台の弾劾でついにテムデルを失脚させた。しかし1320年3月1日、36歳で崩御した。息子のシデバラを即位させた皇太后ダギはテムデルを復職させ、その専権が続いた。この治世は、漢文化と知識人が優遇されたため、漢人が編んだ歴史書では高く評価されており、元朝が征服王朝として成熟した時代といわれることもある。
同じ年に亡くなった人物
- クトゥブッディーン・ムバーラク・シャー (1320年没)
- マフムード・シャベスタリー (1320年没)
- ユヌス・エムレ (1320年没)
- ミカエル9世パレオロゴス (1320年没)
- Pietro de' Crescenzi (1320年)