伝記
ユヌス・エムレは、アナトリア地方出身のトルコの詩人であり、スーフィー(イスラームの神秘主義者)である。1238年ごろ(1240年ごろとする説もある)に生まれ、1321年ごろに没したとされる。生涯はほとんど謎に包まれており、生没年にも「ごろ」がつく。セルジューク朝の時代からオスマン帝国の初期にかけて生き、トルコの「民衆的神秘主義」を代表する人物とされる。
生きた時代は動乱の時代であった。セルジューク朝は1071年からアナトリアを支配し、コンヤを都としていたが、やがてモンゴルの侵入に直面し、1243年の決定的な敗北ののち、領土は新しい支配者に従属する諸侯国に分かれた。農民は二重の課税を負うことになり、国内の混乱、ビザンツの衰え、十字軍の敗北、そして新たにオスマン家が台頭する状況が、彼の内面の背景となった。
正確な出生地は分かっていない。西部アナトリアを南北に流れるサカリヤ川流域、特にエスキシェヒルが有力とされるが、アンカラ地方の古代ゴルディオンの跡地とする見方もある。彼の詩は生涯をたどる手がかりとして用いられ、詩からの推測では、内陸のコンヤで教育を受けたとみられ、アラビア語やペルシア語を解し、イスラームの諸学問にも深い造詣があったという。生涯の多くをトルコ南部のカラマンで過ごしたとされる。ただし、彼は「文字を知らない者」(トルコ語でウンミー)だったと伝えられ、この語は、コーラン学の学校で学ばず、神秘的な教えを霊感によって受けたことを意味するともされる。
タプトゥク・エムレを師と仰いだと詩の中で語り、その期間を「40年」とした。40という数は、忍耐を表す象徴的な数字とされる。伝説では、貧しい労働者だったユヌスはハージ・ベクタシュのもとを訪れ、小麦を望み、祝福を選ばなかったことを悔いてタプトゥクのもとに送られ、40年間、修道場の薪を運んだ。あるとき、集まった修行者の前で歌い手が声を失うと、師の命で代わりに歌い、それ以後、説教と歌をはじめたという。実際の生涯は、ほとんど分かっていない。師の死後、弟子たちは彼を後継者と認めたとされ、アナトリアを旅し、シリア経由でメッカ巡礼をしたかもしれないが、確証はない。ペルシアの詩人ルーミーの影響を強く受け、神や人間への愛を詠んだ神秘主義詩を多く世に問うた。晩年にルーミーと会ったともいわれる。
主にアナトリア・トルコ語で詩作し、日常の言葉による簡潔な表現で深い主題を扱った。ルーミーと同じく四行詩の形式を用い、民衆詩の音節数の韻律にも優れた詩を残した。多くの詩が彼の作とされるが、どれが本人の作かを見きわめることは難しく、後の時代の詩も加えられている。1321年ごろに没したとされ、七十二歳か八十二歳だったという。墓所とされる場所は複数の地域にある。
アナトリア・トルコ語詩の先駆者と評され、のちのオスマン帝国とトルコ共和国に連なるトルコ文学全体に与えた影響は計り知れない。2009年からトルコ共和国で流通する200トルコリラ紙幣には、彼の肖像画が描かれ、2007年に創設された国際文化交流機関「ユヌス・エムレ・インスティトゥート」は、彼の名をとっている。
同じ年に亡くなった人物
- Margaret of Castello (1320年)
- マフムード・シャベスタリー (1320年没)
- Pietro de' Crescenzi (1320年)
- ヘルヴィヒ・フォン・ホルシュタイン (1320年代没)
- モンテクローチェのリコルド (1320年)
同じ地域に関係する人物
- John Palaiologos (1275年没)
- マクリヌス (218年没)
- ルーセル・ド・バイユール (1077年没)
- Ariobarzanes III of Cappadocia (紀元前41)
- アンティオコス2世テオス (紀元前246年没)