HISTORICAL PERSON · 1317年没

ジャン・ド・ジョアンヴィル

シャンパーニュ伯家の重臣。第7回十字軍にルイ9世と従軍し王の知遇を得て、後年その伝記『聖王ルイの生涯』を著し重要な史料を残した。

生涯
1317年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ジャン・ド・ジョアンヴィルは、1224年ごろに生まれたシャンパーニュ地方の貴族で、のちに第7回十字軍に従い、聖王ルイ(ルイ9世)の伝記を書いた人物である。父はシモン・ド・ジョアンヴィル、母はベアトリス・ドーソンヌで、シャンパーニュの高位の貴族の家に属していた。若いころは、有名な詩人でもあったシャンパーニュ伯ティボー4世の宮廷で、読み書きとラテン語の初歩といった貴族の子弟の教育を受けた。父が亡くなるとシャンパーニュ伯家のセネシャルの地位を継いだ。この地位は世襲となっており、伯の側近であった。1230年にシャンパーニュ伯から幼いころに許嫁として決められたアリクス・ド・グランプレと、1240年に結婚した。1241年には主君の伯に従い、のちの聖王ルイとなるフランス王の宮廷を訪れた。

1244年、ルイ9世がエジプトを目指す第7回十字軍を呼びかけると、ジョアンヴィルはこれに加わった。35年前に父がアルビジョワ十字軍に加わっていたのと同じである。一方で、1246年から1247年の貴族の反乱にも加わっている。十字軍では王に仕えて相談役、腹心となった。1250年、王と軍勢がマンスーラでマムルーク軍に捕らえられた際、ジョアンヴィルも捕虜となり、交渉や身代金の調達に加わった。解放されてアッコンに着いたのち、ルイ9世がフランスへ帰るか留まるかを諸侯に尋ねると、多くの諸侯は帰国を望んだが、ただ一人ジョアンヴィルだけが現地に留まるよう主張した。王はこれを受け入れた。

その後の4年間を聖地で過ごすあいだ、ジョアンヴィルは王によく耳を傾けられる相談役だった。王は彼の激しやすさや素朴さ、弱さをおもしろがり、ときにたしなめたが、彼の揺るぎない忠誠と率直さには頼れると知っていた。王が母ブランシュ・ド・カスティーユを亡くしたとき、ジョアンヴィルは最初に王の天幕に迎えられた者の一人だった。1254年に帰国した後は、シャンパーニュ伯のセネシャルを務めた。最初の妻アリクスは1261年に亡くなり、のちにアリクス・ド・レネルと再婚している。1270年にルイ9世が第8回十字軍を起こしたときは誘われたが、遠征が成果を上げないことを見通し、王は国を離れるべきでないと考えて従わなかった。遠征は大失敗に終わり、王はチュニスの前で亡くなった。

1271年からは教会による調査が長く続き、親しく王を知るジョアンヴィルは1282年に証言した。その証言は聖職者の調査官にとってきわめて貴重で、ルイ9世は1297年に列聖された。1299年ごろ、王妃でシャンパーニュ女伯のジャンヌ・ド・ナヴァールに、聖王ルイの生涯を書くよう求められた。ジャンヌは1305年に完成を見ずに亡くなり、ジョアンヴィルは作品を1309年に、ジャンヌの子で後のルイ10世にあたるナヴァール王ルイ(ルタン)に捧げた。『聖王ルイの生涯』と題されるが、記述の大部分は第7回十字軍で、筆者が自分で見聞きしたことのほか、王から直接聞いたと思われる逸話も含まれ、重要な史料となっている。ジョアンヴィルはルイ9世にかなり率直に物を言っており、これは臣下ではないという立場や性格によるとともに、当時の王と貴族の関係を映していると見られる。

ジョアンヴィルは1317年12月24日、93歳を超える年齢で亡くなった。これは聖王ルイの死から50年近く後のことで、当時としては並外れた長寿だった。ジョアンヴィル城のサン・ローラン教会のサン・ジョゼフ礼拝堂に葬られたが、城は今は失われている。父の死とともに、息子アンセルがジョアンヴィルの領主となった。

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