伝記
ユッルス・アントニウスは、紀元前43年に生まれ、紀元前2年に没した古代ローマの人物である。マルクス・アントニウスと3番目の妻フルウィアの次男で、執政官やアジア属州総督などを歴任し、詩人でもあった。アウグストゥスの娘ユリアの愛人として知られ、その醜聞の末に命を絶った。
生まれた紀元前43年の10月、父アントニウスはそれまで対立していたオクタウィアヌスらと手を組み、第2回三頭政治が成立した。これに伴うオクタウィアヌスと異父姉クロディア・プルクラの結婚は、紀元前41年に離婚に終わった。母フルウィアはこれを一族への侮辱と捉え、叔父ルキウス・アントニウスとともにイタリアで蜂起した(ペルシアの戦い)。軍は一時ローマを占領したが、ペルシアに後退し、紀元前41年から翌年の冬にオクタウィアヌスの兵糧攻めに遭って降伏した。フルウィアはシキュオンへ逃れ、そこで病を得て急死した。
同じ年に父アントニウスは、オクタウィアヌスの姉小オクタウィアを妻に迎えた。元老院の斡旋による政略結婚だった。オクタウィアはアントニウスに貞淑に仕え、ユッルスなど夫の子供たちにも自分の子と同じ愛情を注いだ。しかし紀元前36年、アントニウスはオクタウィアと子供たちを捨て、かつての愛人クレオパトラのもとへ走った。紀元前32年ごろに離婚が成立し、ユッルスと異母妹たちはローマでオクタウィアに引き取られ、兄のマルクス・アンティッルスは父に従ってエジプトに残った。紀元前30年、オクタウィアヌスがエジプトへ侵攻すると、アントニウスは自刃し、クレオパトラも後を追った。
アウグストゥスは、ユッルスの兄アンティッルスや義兄カエサリオンを処刑する一方、ユッルスやクレオパトラの子らには寛大だった。彼らはオクタウィアのもとでローマ市民として育てられ、ユッルスは継母の引き立てで、宿敵の子でありながらアウグストゥスの寵遇を受けた。オクタウィアの求めで、彼女の娘で皇帝の姪にあたる大マルケッラと結婚した。マルケッラはもとアグリッパの妻だったが、アウグストゥスが娘ユリアの再婚相手にアグリッパを指名したため、紀元前21年に離婚させられていた。二人にはルキウス、ガイウス(またはユッルス)、ユッラ・アントニアの三人が生まれ。ユッルスは紀元前13年にプラエトル、紀元前10年にコンスル、紀元前7年にはアジア属州総督となった。ホラティウスは、ユッルスがガリアでの戦勝を称える詩を書こうとしていたと述べている。ユッルス自身も詩人で、12編の詩を書いたことが記録されている。
いつからかは定かでないが、ユッルスはユリアと不倫の関係を結んだ。ユリアはアグリッパが紀元前12年に死ぬと、義兄ティベリウスとの結婚を強いられたが、夫婦関係は間もなく破綻し、離婚を熱望する彼女を受け入れたのがユッルスだった。紀元前8年にティベリウスがローマを去ると、立場に不安を感じたユリアは、後継者であるガイウスとルキウスをはじめ子供たちの後ろ楯を求めて、ユッルスに近づいた。歴史家たちは、ユッルスがアウグストゥスに対する陰謀を企て、ユリアとの結婚と、場合によっては二人の少年が成年に達するまでの摂政政治を望んでいたと示唆している。もっともユリアは、父や息子たちを危険にさらす気はなく、ティベリウスとの離婚とユッルスを息子たちの後見人にすることだけを目論んでいたのだろうとされる。紀元前2年、アウグストゥスがユリアの放埒な関係に動き出し、ユッルスが最も重要な愛人であることが明るみに出た。他の男たちは国外追放に処されたが、ユッルスのみは外患罪で死刑を宣告され、その直後に自殺した。
同じ年に亡くなった人物
- フラーテス4世 (紀元前2年没)
同じ地域に関係する人物
- パウル・ヤンセン (2003年没)
- マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前166年の執政官) (紀元前148年没)
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレル (紀元前59年没)
- アルマンド・トロヴァヨーリ (2013年没)
- マルクス・オクタウィウス (紀元前150)