伝記
スンバトは、キリキア・アルメニア王国の王である。1276年に生まれたとされるが、1277年とする説もある。父は国王レヴォン2世、母はキランナ・ド・ランプロンで、ヘトゥム家の一員である。兄にヘトゥム2世とトロス3世、ほかに兄弟のコスタンディンがおり、双子の姉妹にイザベルがいた。
1295年ごろ、兄のヘトゥム2世とトロス3世は、コンスタンティノープルへ赴くことになり、スンバトに王国の摂政を任せた。スンバトはこの隙に、兄のコスタンディンの助けを借り、諸侯を集めて自ら王位を奪った。治世は1296年から1298年までとされる。1297年にはスィスで総大主教グレゴリウスによって聖別された。王位を正当なものにするには、ペルシアのモンゴルの支配者の承認が必要だった。そこでスンバトは1297年、自らガザン・ハンの宮廷へ赴き、王位の承認を得ることができた。ガザン・ハンは、親族の王女の一人を妻として与えたとされる。この結婚で子は生まれなかった。スィスに帰ると、スンバトと総大主教グレゴリウスは、治世が変わったことをローマ教皇に通知し、国王は自分と王国をローマ教会の保護下に置いた。
1297年には、エジプトのマムルーク朝がキリキアに侵攻して略奪を行った。スンバトは帰国した兄たちを国外へ追放したとされる。二人はコンスタンティノープルに戻って援助を求めたが、東ローマ帝国はわずかな金銭を与えただけだったという。ガザン・ハンの宮廷へ向かおうとしたが、カイサリヤで捕らえられ、バルズルベンドに幽閉された。別の伝えでは、帰国した兄たちが捕らえられて、そこに投獄されたともいう。ヘトゥム2世は目をつぶされ、焼きごてによるともいわれる。1298年、トロス3世は殺された。スンバトの命令とも、ガザン・ハンの命令による死刑ともされる。これらの残虐な行為は、兄弟のコスタンディンの怒りを招いた。コスタンディンはスンバトに背き、スィスに攻め込んでスンバトを破り、捕らえて自ら王位に就いた。コスタンディン3世である。
1299年、ガザン・ハンが最初のシリア遠征を行っているとき、ヘトゥム2世が、アルメニアの諸侯の支持を受けて、ルームからモンゴル軍のもとに到着した。この時のヘトゥム2世は、奇跡的に視力が回復していたと伝えられ、3度目の即位をした。コスタンディン3世は廃位された。のちにコスタンディンは、スンバトを牢から救い出そうと試みたが、捕らえられた。二人はコンスタンティノープルに送られ、そこで抑留された。
スンバトの最期には、はっきりしない点が多い。1308年に、キリキアの奪還を試みている途中で、謎めいた死を遂げたとされる。ヴェネツィアの船の上で、キプロスとキリキアの間で亡くなったとも、キリキアに上陸して捕らえられ殺されたともいわれる。没年を1310年ごろ、あるいは1311年とする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- アブー・アル=ラビ・スライマーン (1310年)
- Gottfried von Hohenlohe (1310年)
- イブン・マンズール (1310年代没)
- Marguerite d'Oingt (1310年)
- Athanasius I of Constantinople (1310年)
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