伝記
ラムセス3世は、エジプト新王国第20王朝の二代目のファラオである。父は王朝を開いたセトナクトで、自身もその共同統治者を務めていた。第19王朝が崩れた後の混乱を収めたセトナクトは高齢で、治世は二年ほどで終わり、王位は息子に移った。古代エジプトで大きな権威を持った最後のファラオと称され、第19王朝のラムセス2世のような統治を目指したとも伝わる。在位は紀元前1186年から紀元前1155年ごろとされるが、死去を紀元前1156年頃や紀元前1153年頃とする説もある。
在位の時期は、古代ギリシアが暗黒時代に入る政治的混乱の時代と重なり、エジプトは外敵の圧力にさらされた。在位8年目には、ペレセトやチェッケルなど複数の民族から成る「海の民」が、レヴァント方面から陸と海の両方で侵入した。エジプト軍はまず北東の国境で陸路の敵を破り、続く海戦では、海岸に弓兵を並べて矢を浴びせ、船を連ねた防御の壁で迎え撃った。鉤縄で敵船を引き寄せての白兵戦の末に勝利したという。海軍は貧弱と見られていたが、櫂で自在に動けたことが有利に働いたとされる。ラムセスは降伏した者たちをカナアン南部に入植させたと主張したが、明確な証拠はない。捕虜の一部は傭兵となり、パレスチナに置かれた入植地は、後しばらくエジプトを周辺の争いから隔てる緩衝地帯になったとされる。
西のリビア人とは二度戦った。在位5年目の最初の戦いでエジプトは勝ち、リビア側は戦死者約12,500名、捕虜約1,000名を出した。それでもリビア人はデルタ西部に居着き、在位11年目には、メシュウェシュ人が定住を求めてデルタへ侵入し、エジプト軍が決定的な勝利を収めた。リビア側は戦死者2,000名以上を出し、首長のメシェシェルは捕虜となった後に処刑された。以後リビア人の侵入はなくなり、国内のリビア人は傭兵として体制に組み込まれていった。ハリス・パピルスには、誰にも妨げられず自由に旅ができ、兵士の武器は倉庫に納められたままだったと王が語ったとある。
平時の事業も多かった。プントへ没薬や香料を求める遠征隊を送り、シナイでトルコ石を、ティムナで銅を採掘させたと記録される。テーベとカルナックに神殿を建て、メディネト・ハブの神殿には海の民やリビア人との戦いの場面を刻ませた。この神殿は新王国時代の遺跡の中でも保存状態の良い建造物の一つである。一方で、アメン、ラー、プタハの神官団へ穀物や銀を大量に奉納したため、神官団の力が強まった。とりわけアメン神殿は所領や船、家畜を多く受け取り、後のアメン大司祭国家が成立する背景の一つになった。国家財政はすでに破綻状態にあったともいう。
治世の末期、王家の谷で墓を造る職人たちが、食糧の配給が度重なって遅れたことを理由にストライキを起こした。これは歴史上最古のストライキとされ、在位29年目には配給が出るまで座り込みが続いた。やがて王は後宮の陰謀によって命を落とした。長らく外傷のない死と信じられ、蛇に咬まれた説もあったが、のちに暗殺と確かめられた。妻の一人が自分の息子ペンタウアーを王位に就けようとして起こしたもので、裁判の記録には多数の関係者が挙がる。2012年のミイラのCT調査で、喉に脊椎へ達する深い傷があると判明し、享年は約65歳とされる。事件の関与者はその年のうちに裁かれ、三十八人に死刑が言い渡された。有罪となった者の一部はおそらく毒による自死を許され、ペンタウアーもその一人だったとされる。
同じ年に亡くなった人物
該当人物はまだありません。
同じ地域に関係する人物
- Ahmose-Sitamun (紀元前1600)
- ベケトアテン (紀元前1400)
- Sennedjem (紀元前1001)