伝記
ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒは、1904年3月7日にプロイセン王国ザクセン州のハレで生まれた、ナチス・ドイツの高官である。父ブルーノは音楽家で、母エリーザベトは宮廷顧問官を務めた音楽研究者の娘であった。「ラインハルト」は父が作曲したオペラの主人公の名、「トリスタン」はワーグナーのオペラの主人公の名、「オイゲン」は母の父の名に由来する。1901年に姉が、1905年に弟が生まれている。父は貧しい木工職人の息子で、ダンサーとして出発したのち作曲家となり、オペラで大きな成功を収めた。ラインハルトが生まれた頃にはハレ音楽学校を創設して校長となっていた。母は厳格なカトリック教育を施したが、母の期待に反して、彼はのちに反カトリックとなり、キリスト教自体も好まなかった。幼いころから父の教育で音楽をたしなみ、やがてヴァイオリンの名手となった。
父にはユダヤ人だという噂があった。祖母の再婚相手の姓がユダヤ人に多いものだったことと、音楽年鑑などの記載のためで、実際には血のつながりはなかった。ラインハルトは後々までこの噂を政敵に利用され、噂を消そうと躍起になった。1932年にヒトラーの要求で行われた系譜学者の調査では、ユダヤ人の血の混入はないと鑑定されたが、噂は消えず、彼は噂をする者を次々と告訴した。1914年にハレのギムナジウムに入学したが、年齢のため第一次世界大戦には出征していない。大戦後はインフレでハイドリヒ家が困窮し、1919年に15歳でドイツ義勇軍に参加し、民族主義団体にも所属して反ユダヤ主義的な思想の影響を受けた。
アビトゥーアを修了後、1922年3月に18歳でドイツ海軍に入り、キールの海軍工廠や練習帆船などで勤務した。巡洋艦での勤務中に、のちの国防軍諜報部司令官ヴィルヘルム・カナリスと出会い、ヴァイオリンの奏者としてその自宅の演奏会によく招かれ、二人は親密であったという。1926年10月に海軍少尉に任官し、通信将校として勤務して、1928年に海軍中尉となった。語学に堪能で、英語、フランス語、ロシア語の試験に合格したが、同僚とはほとんど打ち解けなかった。1931年5月、交際のもつれから軍法会議にかけられ、海軍を不名誉除隊した。
同年6月、親衛隊の関係者の推薦で、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの面接を受けた。ヒムラーは情報部の構想を20分で書かせ、その出来と、金髪碧眼の北方人種の容姿に満足して、採用を即決した。ハイドリヒは6月1日付でナチ党に入党し、親衛隊内の情報部門の実質的な運営を任された。発足当初は妻のリナが秘書をつとめ、部下は3人だけの弱小組織であったが、彼は精力的に働き、党内外の政敵を索引カードにする作業に没頭した。1932年7月に正式にSDの長官となった。1933年にヒトラー内閣が誕生すると、バイエルン州の政治警察部長となり、ミュンヘン郊外にダッハウ強制収容所を設立させた。のちにゲシュタポ長官とSD長官を務め、国家保安本部の事実上の初代長官としてドイツの政治警察権力を一手に掌握し、ヒムラーに次ぐ実力者となった。ユダヤ人問題の最終的解決計画の実質的な推進者で、その冷酷さから部下に「金髪の野獣」と渾名された。戦時中はベーメン・メーレン保護領の統治にあたったが、連合国が送り込んだチェコ人とスロバキア人の部隊に暗殺され、1942年6月4日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ヤヌシュ・コルチャック (1942年没)
- アヴラハム・シュテルン (1942年没)
- ジョセフ・フランクリン・ラザフォード (1942年没)
- クリントン・ハート・メリアム (1942年没)
- ユハン・クック (1942年没)
同じ地域に関係する人物
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- ヤン・クベリーク (1940年没)
- カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキー (1856年没)
- ヴィーチェスラフ・ネズヴァル (1958年没)
- ペトル・エベン (2007年没)