伝記
オットー1世・フォン・ナッサウは、1224年に生まれ、ナッサウ伯を務めた人物である。ナッサウ伯ハインリヒ2世と、ヘルデルン・ズトフェン伯オットー1世の末娘マティルデとの間の三男で、母方の祖母はバイエルン公オットー1世の娘リヒャルディスにあたる。史料に初めて名が見えるのは1247年の証書で、1251年より前に父の跡を継ぎ、兄弟のヴァルラム2世と共に領地を治めた。1251年には、ドイツ王ヴィルヘルムからヘルボルンの都市特権を受けている。1255年12月16日、ヴァルラムとオットーはラーン川を境にして伯領を分けた。この取り決めは今日「第一次分割」と呼ばれる。ラーン川の北側にあたるジーゲン、ディレンブルク、ヘルボルン、トリンゲンシュタイン、ノイキルヒ、エメリヒェンハインの各領主権や、カレンベルク管区の一部、ディートキルヒェン、バート・エムスがオットーの取り分となり、ナッサウ城とその付属地、ミーレン管区、シェーナウ管区、ラウレンブルク城、ヘッセンにある封土などは両者の共有のまま残された。
オットーは1270年より前に、ライニンゲン伯エミヒ4世の娘アグネスと結婚した。領内で自らの権利を守り通すことは容易でなく、帝国の最高の保護者の力が大きく衰えていた時代でもあった。ヴェスターブルク領主やザイン伯とはヴェスターヴァルトでの特権をめぐって、グライフェンシュタイン領主やデルンバッハ領主とは執行権をめぐって争い、しばしば抗争に発展したが、その経過の詳細は伝わっていない。トリーア大司教との争いでは、コブレンツとエムスの守護権を失った。
ケルン大司教ジークフリート2世・フォン・ヴェスターブルクとの関係もはっきりしない。オットーは1277年4月8日、ヴェストファーレンの諸侯とともに大司教と戦う盟約を結んだ。ところがリンブルク継承戦争では、大司教の同盟者となっている。1285年には、父がドイツ騎士団に与えた手厚い寄進を減らそうとし、少なくとも騎士団の望むようには増やさなかったため、騎士団の財産を奪う者と名指しされて破門され、領地は聖務停止の処分を受けた。この争いは翌年に決着した。
オットーは1287年より前にフェルドバッハの礼拝堂を建てた。1289年5月3日の証書では、妻アグネスと長男ハインリヒの名を挙げたうえで、母マティルデがアルテンベルクの教会に行ったハーゼルバッハとアルデンドルフの財産の寄進を確認している。オットーの妹カタリーナもそこに入っていた。これが本人への最後の言及で、1290年3月19日の証書では故人とされている。遺体はアルテンベルク修道院に葬られた。
妻アグネスは1299年12月より後に没し、同じ修道院に葬られた。二人の間にはハインリヒ、マティルデ、エミヒ、オットー、ヨハン、ゲルトルーディスが生まれた。マティルデは1289年ごろにゲルハルト・フォン・シェーネックと結婚し、オットーは1294年にヴォルムスの司教座聖堂参事会員となって1302年に没した。ゲルトルーディスはアルテンベルク修道院の女子修道院長を務めた。ハインリヒ、エミヒ、ヨハンの三人が父の跡を継ぎ、1303年にそれぞれジーゲン、ハダマー、ディレンブルクの伯となった。ほかに庶子のハインリヒがおり、シュルトハイスを務めた。その子アルノルトの名は1314年の証書に見える。
同じ年に亡くなった人物
- ケーザイ・シモン (1300年(推定))
- Dobromir Chrysos (1300年(推定))
- フランソワ・グリマルディ (1300年代没)
- John of Garland (1300年(推定))
- マンスール・アリー (1300年(推定))
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