伝記
フランソワ・グリマルディは、ジェノヴァ出身のゲルフ(教皇派)の人物で、現在のモナコ公家であるグリマルディ家の始祖として知られる人物である。イタリア語ではフランチェスコと呼ばれたのがほぼ確実とされ、「悪賢い者」「狡猾な者」を意味するあだ名でも知られる。生年は不明で、没年は1309年。ジェノヴァ共和国の都市貴族グリマルディ家の出で、父はグリエルモ・グリマルディ、母はジェノヴァの貴族の女性ジャコビーナ(ジャコバとも)である。家系は、12世紀にジェノヴァの執政官を何度も務めたグリマルドに連なるとされ、グリマルドの名が一族の姓になったという。
当時の北イタリアでは、教皇を支持するゲルフと、神聖ローマ皇帝を支持するギベリンが争い、都市の内部にも長く対立が続いていた。1295年、リグーリアのゲルフ勢を率いていたフランソワはギベリンの軍に敗れ、モナコの岩へ逃れたとされる。同じ1295年に、従兄ランフランコ・グリマルディの未亡人アウレリア・デル・カレットと結婚した。
1297年1月8日の夜、フランソワはフランシスコ会の修道士の姿に変装し、少数の手勢とともにギベリンに占領されていた要塞の門を訪れた。城門で迎え入れられたところで城を奪ったといわれ、従弟のカーニュ侯レーニエ1世も加わっていたと伝わる。フランス語圏の記述では、一夜の宿を求める修道士を装って入り込み、夜のうちに兵のために門を開いたとされ、これが前述のあだ名の由来になったという。ただしこの話は伝承に基づくものである。この出来事は、剣をかざす二人の修道士の姿とともに、神の助けによってという意味の標語を添えたモナコの紋章に残っている。
しかし、フランソワがモナコを治めたわけではない。ジェノヴァ軍の長い攻撃を受け、わずか4年後には岩を追われた。この最初の試みは失敗に終わったが、一族は海上交易の拠点として有利なこの地の奪還を目指すことになる。
フランソワは1309年に没した。フランス語圏の記述ではヴァンティミリアで亡くなったとされる。アウレリアとの間に子はなく、跡を継いだのは従弟で妻の連れ子でもあるレーニエ1世であった。現在のモナコ公家はレーニエ1世の子孫であり、フランソワの直系ではない。グリマルディ家の支配が固まるのは、それから1世紀以上のちの1419年である。フランソワは、支配を試みた最初の一族の者として、モナコの創始者に数えられている。
同じ年に亡くなった人物
- Dobromir Chrysos (1300年(推定))
- 陳興道 (1300年没)
- グイド・ボナッティ (1300年代没)
- アドネ・ル・ロワ (1300年)
- チャカ (ブルガリア皇帝) (1300年没)
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