伝記
モーリス・マリー・エミール・ルブランは、1864年12月11日、ノルマンディーの地方都市ルーアンで、第二子として生まれた。父エミールは海運と石炭卸売を営むブルジョアの実業家で、出産に立ち会ったのは、かかりつけの医師でフローベールの兄アシルだった。のちにパリの文壇で、彼はこの事実を自慢することになる。普仏戦争のため1870年12月にスコットランドへ疎開し、翌年7月にルーアンへ呼び戻された。1875年から地元のグラン・リセに通い、しばしば表彰を受ける優等生だったが、その厳格な空気を嫌っていたと、自伝的な小説に記している。1879年の夏に自転車を手に入れ、サイクリングは壮年期以降も続く趣味となった。1882年にリセを卒業した後、父の望みで英語を学ぶためにマンチェスターに一年間滞在した。
1883年に自らフランスへ戻り、「条件付き兵役」に志願して、ヴェルサイユの砲兵連隊に配属された。この二年間を、後に「私は不幸だった」と述懐している。帰郷後は反動のように、劇場や居酒屋に通い、ビリヤードや喫煙、飲酒に明け暮れ、サイクリングでフランス全土を踏破した。のちの代表作『奇巌城』の源流は、このころに訪れたエトルタの風景にある。1885年1月、敬愛した母ブランシュが41歳で亡くなり、遺産相続のために職に就く必要が生じた。父の伝手で機械式の梳毛工場に勤めたが、まったく関心を持てず、その逃避として小説の執筆を始めた。
ルーアンに居づらくなったこともあって、1888年の末にパリのモンマルトルに移り、翌1889年1月、寡婦のマリー・ラランヌと結婚した。このころは文芸酒場として知られたキャバレー「黒猫」に通って、多くの文人や芸術家と交わった。同年11月にニースで長女マリー・ルイーズが生まれた。1890年3月、短編「救助」で商業デビューし、同年に自費出版した短編集はモーパッサンに捧げられたが、「1000冊刷って3、40冊しか売れなかった」と後にこぼしている。1892年にはジル・ブラス紙にコラムニスト兼投稿小説家として採用され、短編が掲載されて名が知られるようになった。1893年に長編小説の連載を始め、1895年には疎遠になっていた妻マリーからの離婚請求が認められて、離婚が成立した。
1896年に自転車サークル「アーティスティック・サイクル・クラブ」に入会したことが、後のルパンのシリーズを生む契機になったとされる。翌1897年、夫と別居中だったマルグリット・ウォルムセールと出会って交際を始めた。しかし1899年ごろから、マルグリットの離婚調停がうまくいかず、心身の健康を損ね、売れ行きも芳しくなく、職業の面でも苦境に陥った。1901年に自伝的な長編『熱意』を刊行したが、反響はほとんどなく、初動の部数は1000部程度にとどまった。1902年8月、マルグリットが長男クロードを極秘に出産した。同じころ、アンリ・デグランジュの依頼で、新聞に短編の冒険小説を書き始める。それまでの心理小説とは方向が違い、経済的な理由で渋々受けた仕事であったという。のちに怪盗紳士アルセーヌ・ルパンを生み出し、しばしばコナン・ドイルのシャーロック・ホームズと対比された。1941年11月6日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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