伝記
アニー・ジャンプ・キャノンは、1863年12月11日、アメリカ合衆国デラウェア州のドーバーに生まれた天文学者で、現在も使われている恒星の分類法を確立した人物である。父ウィルソンは造船業者で州議会議員も務め、母メアリー・ジャンプはウィルソンの二人目の妻だった。三人の娘の長女で、天文学に興味を持っていた母の影響を受け、屋根裏部屋で天体観測をして過ごした。1880年に親元を離れ、マサチューセッツ州のウェルズリー大学に進んだが、当時この大学では天文学を専攻できなかったため、物理学を専攻した。1884年に物理学の学位を得て、卒業生総代にもなっている。
卒業後はデラウェアに戻り、数学と歴史の家庭教師として働いた。1892年には日食を観測するためスペインへ行き、カメラを手にヨーロッパ各国を訪れて、写真に文章を添えた小冊子『コロンブスに倣いて』を作った。この冊子は1893年のシカゴ万国博覧会で配られた。この年までに猩紅熱にかかり、その影響で難聴になっていた。旅行後は家で暮らしながら自分の人生に不満を抱き、もっとできることがあると思うようになった。1894年に母が亡くなると、ウェルズリー大学の恩師サラ・フランシス・ホワイティングに願い出て助手となり、天文学を学ぶ機会を得た。ここで身につけた分光学の知識が、のちの分類の仕事に生かされた。同年、ラドクリフ・カレッジの特別学生にもなり、1896年にはアメリカで最初のX線実験に参加している。
1896年、ハーバード大学天文台長のピッカリングと面会して助手に雇われ、同年末にウェルズリー大学の職を辞して、天文台で研究と観測にいそしんだ。当時ピッカリングは、天体写真を解析し、星ごとの位置や明るさ、スペクトルを特定する計画を進めており、解析する人は「コンピューター」と呼ばれた。ピッカリングは多くの女性をコンピューターとして雇い、キャノンもその一人で、南半球の星のスペクトル解析を担当した。1900年から星の分類を始めたが、従来の分類法が不完全なことに気づき、新たな分類法を作り上げた。フレミングの分類をO、B、A、F、G、K、Mの形に再編し、それぞれに0から9の下位区分を設けたこの分類法は、1919年に国際天文学連合でも採用された。
1911年に写真技術の技官となり、星表ヘンリー・ドレイパーカタログのため、全天の星の分類を始めた。作業は1915年までの4年間にわたり、22万5300の恒星を分類した。スペクトル写真を目で分類し、助手が記録する方法で、見やすい場所では1分間に3個ほどの速さで分類できた。1919年にピッカリングが死去すると、残りの編集を引き継いだ。1922年にはペルーのハーバード観測所に派遣されて、南半球の星を撮影した。1921年にはフローニンゲン大学で天文学の学位を取得した最初の女性となり、1925年には女性として初めてオックスフォード大学から名誉学位を受け、1931年には全米科学アカデミーからヘンリー・ドレイパー・メダルを受けた最初の女性となった。1938年、75歳で「ウィリアム・クランチ・ボンド天文学者」の称号を得た。1941年4月13日、拡大カタログの完成を待たずに、心臓病により77歳で死去した。生涯で約35万個の星を分類したとされる。
同じ年に亡くなった人物
- マキシミリアノ・コルベ (1941年没)
- パノス・テルレメジアン (1941年没)
- ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤ (1941年没)
- ポール・サバティエ (1941年没)
- ルイス・ブランダイス (1941年没)
同じ地域に関係する人物
- エディ・ショア (1985年没)
- アン・ワング (1990年没)
- チャールズ・スプレイグ・サージェント (1927年没)
- オスカー・ザリスキ (1986年没)
- ブルックス・アダムズ (1927年没)