伝記
アンリ=ルイ・ベルクソンは、1859年10月18日にパリで生まれたフランスの哲学者である。父ミハウはポーランド系ユダヤ人の作曲家でピアニスト、母ケイト・レビンソンはヨークシャー地方ドンカスターの医師の娘でイギリス系のユダヤ人だった。アンリは4男3女の7人兄弟の次男で、母は子どもたちに英語を学ばせた。1863年に一家はスイスのジュネーヴに移り、父はジュネーヴ音楽院の教師、のちに校長となったが、同僚との関係がうまくいかず、1866年にパリに戻った。1868年にリセ・コンドルセに入学し、アンリは家族がロンドンに移ったあとも単身フランスに残って寄宿舎で暮らした。ラテン語、ギリシア語、数学などで一等賞を取り、1875年には修辞学の名誉賞を受け、最終学年には全国数学コンクールに優勝した。
1878年にパリ高等師範学校の文学部に入学し、ハーバート・スペンサーの著作を熟読して、自分の哲学を形づくっていった。のちに政治家となるジャン・ジョレスと首席を争う成績だった。1881年のアグレガシオンでは、審査員の不興を買いながらも2位で合格した。リセ教師として教えるかたわら学位論文を書き、1888年にソルボンヌ大学に『意識に直接与えられたものについての試論』を提出して、翌1889年に文学博士号を得た。この著作でベルクソンは、「時間」と呼ばれてきたものは、本来分割できないものを空間的な認識で分節した結果だと批判し、意識の流れを「純粋持続」と呼び、これに基づいて自由意志の問題を論じた。1896年には心身問題を扱った『物質と記憶』を発表した。失語症の研究を手がかりに、「イマージュ」の概念を用いている。
1894年と1898年にソルボンヌ大学の教授に立候補して落選し、1900年にはコレージュ・ド・フランスの教授にも一度は落選した。しかしシャルル・レヴェックが急逝したため、ギリシア・ラテン哲学の教授に就任し、1904年にはガブリエル・タルドの後任として近代哲学の教授となった。その講義は好評で、大勢の聴講生が押しかけ、名声は海外にまで広がった。1907年には第三の主著『創造的進化』を発表した。ダーウィンの自然淘汰の考えでは、淘汰の原理に素朴な功利主義しか反映されていないとし、生命の進化を推し進める根源的な力として「エラン・ヴィタール(生の飛躍)」を想定した。
第一次世界大戦下の1917年には、首相ブリアンの要請を受けて使節としてアメリカに渡り、ウィルソン大統領らと会い、講演してアメリカの参戦を促した。1918年にはクレマンソー首相の依頼で再び渡米し、ウィルソンを説得してアメリカ軍の出兵を決めさせた。1921年に国際連盟の諮問機関として国際知的協力委員会が設立されると、委員に任命され、1922年の第1回総会で初代委員長に選ばれた。新渡戸稲造が幹事長を務めた。1927年にノーベル文学賞を受け、1930年にはレジオン・ドヌール勲章を授与された。1932年に最後の主著『道徳と宗教の二源泉』を発表し、「開かれた社会/閉じた社会」「静的宗教/動的宗教」といった概念を用いて考察した。
晩年は進行性の関節リウマチに苦しみ、カトリックの信仰に傾いていった。1939年に第二次世界大戦が始まると、疎開したものの、まもなくパリの自宅に戻った。反ユダヤ主義が吹き荒れるなか、同胞を見捨てられなかったからだといわれる。1941年1月4日、ドイツ軍占領下のパリの自宅で、脳充血により没した。葬儀には参列者が少なく、パリ近郊のガルシュ墓地に埋葬された。1967年にはパンテオンにその名が刻まれることになった。
同じ年に亡くなった人物
- ルドルフ・ヒルファディング (1941年没)
- ルイス・ブランダイス (1941年没)
- ガットスン・ボーグラム (1941年没)
- エルンスト・リンデマン (1941年没)
- アムリタ・シェール=ギル (1941年没)
同じ地域に関係する人物
- セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー (1944年没)
- レーモン・ベルナール (1977年没)
- フィリップ・ル・シャンスリエ (1236年没)
- ギュスターヴ・ドレ (1883年没)
- ピエール=ジャン・ロビケ (1840年没)