伝記
ハンス・シュペーマンは、1869年6月27日、出版者の父と妻リジンカ(旧姓ホフマン)の長男としてシュトゥットガルトに生まれたドイツの発生学者である。1878年から1888年までエーバーハルト・ルートヴィヒ・ギムナジウムに通い、卒業後は1年間、父の稼業を手伝ってハンブルクで本の販売を行った。ついで1889年から2年間、カッセルの軽騎兵連隊で軍務に就いた。1891年にハイデルベルク大学に入って医学を学び、1893年に予備試験を受けた。大学では解剖学者の授業に引きつけられ、生物学者で精神科医のヴォルフと出会った。ヴォルフはイモリで発生学的な実験を行い、成長したイモリの目を除去しても再生することを示した人物だった。1892年にクララ・ビンダーと結婚し、2人の息子をもうけた。1893年から1894年にミュンヘン大学で臨床実習を行ったが、次第に医者より発生学者を目指すべきだと気づいた。
ヴュルツブルク大学の動物学研究所に移って、1908年まで講義を担当した。1895年には動物学、植物学、物理学の学位を取ったが、これはテオドール・ボヴェリやヴィルヘルム・レントゲンらの研究を下敷きにしていた。ボヴェリの指導を受けつつ、寄生虫の細胞系列について研究して博士論文を提出し、さらに教育免状のため、カエルの中耳の発生を研究した。1896年の冬、結核患者のサナトリウムで過ごしながら、アウグスト・ヴァイスマンの著書を読み、遺伝と発生に関する理論に刺激されて実験研究に向かったと自伝に書いている。当時の発生学の研究は、どれも矛盾した結果を示していた。1888年にはヴィルヘルム・ルーが、2割球期に熱した針で一方の割球を殺す実験で半分の胚を得た。1892年にはハンス・ドリーシュがウニ胚の割球を完全に分け、やや小さいが完全な胚を得たと報告した。モーガンらも挑んだが、満足な結果を得られなかった。シュペーマンは微小手術の名手として、両生類の眼の研究に取り組んだ。2割球期のイモリ胚を新生児の髪の毛で結紮して、人工的に双子を作り、半分ずつの割合で完全な胚ができることを報告し、分割面が重要だと発見した。これは前成説を追いやり、割球には初期発生に重要な遺伝情報がすべて含まれていることを証明した。イモリ胚の実験からは、水晶体が眼杯によって誘導されることも発見した。1906年にはレオポルディーナのメンバーに選ばれた。
1908年にロストック大学の教授となり、1914年にはベルリンのカイザー・ヴィルヘルム生物学研究所の所長に就任して、胚の特定部位を他の胚へ移植する実験を行った。1919年からはフライブルク大学の動物学教授となり、1923年から翌年は学長も務めた。ここで博士号を取ったヒルデ・プレショルト(のちのマンゴルト)の助けを得て実験を重ね、1924年に論文を発表した。胚の一部を別の初期胚に移植すると、移植された場所に関係なく二次胚が誘導されることを報告し、この部位を「オーガナイザー」と名づけた。これは日本語で形成体と訳される。初期の胚では予定運命が決まっておらず、より後期の胚ではオーガナイザーを移植しても誘導が起こらないことも明らかにした。1928年には両生類の胚で初の核移植を成功させ、これはクローン技術の始まりとも言える業績である。1935年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。1937年に定年退職するまでフライブルクで研究を続けた。1941年9月、心臓病のため亡くなった。生涯、古典文学への愛を忘れず、友人たちと絵画や文学、哲学を語る夕べの会を開いたという。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・マカドゥー (1941年没)
- John Lander (1941年没)
- ヒュー・ウォルポール (1941年没)
- ジェイムズ・ジョイス (1941年没)
- エルンスト・リンデマン (1941年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィニフレート・ワーグナー (1980年没)
- ニコス・カザンザキス (1957年没)
- ルートヴィヒ・フォン・ヴュルテンベルク (1817年没)
- ヴィルヘルム・ハウフ (1827年没)
- アルトゥール・フィッシャー (2016年没)