伝記
マキシミリアノ・マリア・コルベは、1894年1月8日、当時ロシア帝国の支配下にあったポーランドのズドゥニスカ・ヴォラに生まれたカトリックの司祭である。出生名はライムンドで、織物職人の父ユリオ・コルベと母マリア・ドンブロフスカの5人兄弟の次男だった。成長したのは兄フランシスコと弟ヨゼフと自分の3人だけで、二人の弟は夭逝した。父は在俗フランシスコ会のリーダーで、愛国心に富み、第一次世界大戦中にポーランド独立のための義勇軍に参加したが、ロシア軍に捕らえられて1914年に処刑されたという。先祖はボヘミアからの移民で、「コルベ」はドイツ風の名だったが、本人は一生ポーランド人であるという意識を持っており、ローマの神学校で同級生に「ドイツ人」と言われて顔を真っ赤にしたといわれる。一家は聖母マリアへの崇敬が強かった。
兄が神学校に進むため、ライムンドは家業を継ぐことになり進学できなくなったが、母の使いで行った薬局で、薬品のラテン語名をすらすらと言ってのけたため、薬剤師が驚き、個人的に勉強を教えて援助してくれた。1907年に兄とともにコンベンツァル聖フランシスコ修道会への入会を決め、国境を越えてルヴォフの小神学校に入学した。数学の才に恵まれ、教師は「司祭になるのは惜しい」と嘆くほどで。1910年に修練院に入り、翌年に初誓願を立ててマキシミリアンの名を与えられた。ローマに留学し、1915年にグレゴリアン大学で哲学の博士号を、1919年には神学の博士号を取得した。1917年10月16日、6人の志願者とともに神学校聖堂の汚れなき聖母の祭壇の前で奉献を行い、「汚れなき聖母の騎士会」を創立した。帰国後は結核のため、1920年8月から翌年4月までザコパネで療養した。
1922年に出版による布教を志して『無原罪の聖母の騎士』を執筆し、グロドノの修道院で出版活動を始めた。1927年にはワルシャワ近郊にニエポカラノフ修道院を創立した。当初は中国での宣教を考えていたが、ローマに留学していた神学生里脇浅次郎の勧めで日本へ向かうことになり、1930年4月24日、ゼノ修道士らとともに長崎に到着した。早坂司教から大浦神学校で哲学を教えることを条件に出版の許可を得て、翌月には日本語版の第1号を1万部発行した。1931年には長崎市本河内に聖母の騎士修道院を設立している。1936年にニエポカラノフ修道院の院長に選ばれ、5月に故国へ帰った。
1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、修道院は病院として接収された。同月に逮捕されたが12月に釈放され、修道院に戻って、ユダヤ人にもカトリック教徒にも分け隔てなく看護をした。1941年2月17日にゲシュタポに再び逮捕され、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られた。囚人番号は16670であった。1941年7月末、収容所から脱走者が出たため、無作為に選ばれた10人が餓死刑に処されることになった。選ばれたポーランド人軍曹ガイオニチェクが「私には妻子がいる」と泣き叫ぶと、コルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。許可されて餓死室に入れられたが、他の囚人を励まし、牢内からは祈りと歌声が聞こえたという。2週間後、まだ息のあった4人の一人として、フェノールを注射されて殺害された。1941年8月14日の死であった。1971年に列福、1982年10月10日に列聖された。
同じ年に亡くなった人物
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- ルイス・ブランダイス (1941年没)
- 南方熊楠 (1941年没)
- ルドルフ・ヒルファディング (1941年没)
- パルヴィーン・エーテサーミー (1941年没)
同じ地域に関係する人物
- マチェイ・スウォムチンスキー (1998年没)
- アポロ・コジェニョフスキ (1869年没)
- Jan Szczepanik (1926年没)
- バルバラ・ヤニシェフスカ (2000年没)
- Zygmunt Zimowski (2016年没)