HISTORICAL PERSON · 1941年没

ヴァージニア・ウルフ

イギリスの小説家・評論家。20世紀モダニズム文学の主要作家で、代表作に『ダロウェイ夫人』『灯台へ』『オーランドー』、評論『自分だけの部屋』。

生涯
1941年没
死亡地
イギリス連邦(イースト・サセックス / ルイス)
出生地
イギリス連邦(ロンドン)
出典
世界地図
イギリス連邦(イースト・サセックス)

伝記

ヴァージニア・ウルフは、1882年1月25日にロンドンで生まれたイギリスの小説家、評論家、出版者で、20世紀モダニズム文学の主要な作家の一人である。両大戦間のロンドン文学界の重要人物であり、ブルームズベリー・グループの一員だった。父レズリー・スティーヴンは歴史家、伝記作家、批評家、編集者で、登山家でもあり、『英国人名事典』の編纂者として知られた。母ジュリアは写真家カメロンを伯母に持つ美貌の人で、ラファエル前派のモデルも務めた。両親はともに再婚で、一家には3つの婚姻による子がいて、ウルフは7人目の子として、アデリーン・ヴァージニア・スティーヴンの名で生まれた。家にはヘンリー・ジェイムズらが客として訪れ、書斎には膨大な蔵書があった。兄のトビーと弟のエイドリアンは正規の教育を受けてケンブリッジ大学に進んだが、ウルフは姉ヴァネッサとともに古典や英文学を書物から学び、男女の違いを残念に思ったという。

子どもの頃の最も鮮明な記憶は、一家が1895年まで毎年夏を過ごしたコーンウォールのセント・アイヴスのものであった。そこで過ごした休暇の思い出や灯台の風景は、のちの『灯台へ』の下敷きになっている。1895年、13歳のときに母が48歳で急死し、その2年後に異父姉ステラも亡くなったことで、神経衰弱を発病した。1897年から1901年にロンドンのキングス・カレッジの女子部でギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、歴史を学び、女子高等教育の草創期の改革者たちと出会った。1904年に父が72歳で亡くなると深刻な虚脱状態に陥り、一時入院した。生涯を通じて周期的な気分の変化や神経症状に悩まされたが、文筆活動はほとんど中断せずに続けられた。

父の死後、ヴァネッサとエイドリアンはブルームズベリー地区のゴードン・スクエアに家を買い、そこでウルフはリットン・ストレイチー、クライヴ・ベル、ダンカン・グラント、ロジャー・フライらと知り合った。彼らはブルームズベリー・グループとして知られる著述家や芸術家のサークルをなし、性の問題でも進歩的な立場をとった。1912年に作家のレナード・ウルフと結婚し、1917年には二人でホガース・プレスを始めて、ウルフの小説やT・S・エリオットの著書を出版した。1922年にはヴィタ・サックヴィル=ウェストと出会い、親しく交わった。『オーランドー』はヴィタに捧げられた、3世紀にわたって性を越える主人公の奇妙な伝記で、ヴィタの息子はこれを「文学史上最も長く、最も魅力的なラブレター」と評した。

作家としての出発は、1900年にタイムズ文芸付録に書いた、ブロンテ一家の故郷ハワースについての記事である。処女作『船出』は1915年に異父兄の出版社から出た。代表作には『ダロウェイ夫人』(1925年)、『灯台へ』(1927年)、『オーランドー』(1928年)、『波』(1931年)があり、評論『自分だけの部屋』は、女性が小説を書こうとするなら、お金と自分だけの部屋を持たなければならないと主張した。意識の流れの手法で登場人物の心理を深く掘り下げ、何も起こらないありふれた日常が、人物の意識の中で歪み、崩れる世界を、抒情的な文体で描いた。第二次世界大戦後にいったん評価が下がったが、1970年代のフェミニズム批評によって再評価された。

夫妻は1930年代のファシズムを嫌い、恐れており、二人の名はヒトラーのブラックリストに載っていたとされる。1938年の『三ギニー』は、平和主義者としてのファシズム批判である。1941年3月28日に没した。

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