伝記
ユリア(ユリア・アントニア)は、共和政ローマ末期の貴族女性で、三頭政治家マルクス・アントニウスの母である。紀元前104年にローマで生まれ、紀元前39年より後に没した。ユリア・カエサリスとも呼ばれ、他のユリア・カエサリスと区別するためにこの名で知られる。のちにはアントニウスの娘小アントニアの祖母、皇帝クラウディウスの曽祖母にあたる。
父は紀元前90年の執政官ルキウス・ユリウス・カエサルで、紀元前64年の執政官となった同名のルキウス・ユリウス・カエサルは彼女の兄弟である。母の名は、ファルウィアとされるものの、不明ともされる。一族はユリウス・カエサルの父ガイウスや紀元前91年の執政官セクストゥスの兄弟とも近縁で、ユリアはガイウス・ユリウス・カエサルの遠縁にあたった。彼女はローマで育ち、教育を受けたという。
ユリアは元老院議員の家柄の出である法務官マルクス・アントニウス・クレティクスと結婚し、マルクス、ルキウス、ガイウスの3人の息子を産んだ。この縁戚関係のために、カエサルはこの兄弟の出世を後押しする義理を負ったとされる。夫の評判も息子たちの能力も、カエサルはあまり高く見ていなかったという。ユリアは遠縁のカエサルとしばしば会い、長男のアントニウスを紹介したとも伝えられる。夫は紀元前74年に没したとも、紀元前72年か71年にクレタで死んだともされる。その後ユリアは、いつも借金を抱えていた有力な元老院議員プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラと再婚した。スラは紀元前63年のカティリナの陰謀に関わり、キケロの命令で処刑された。プルタルコスによれば、これがアントニウスのキケロに対する激しい憎しみの源で、アントニウスはキケロが遺体の埋葬を認めず、ユリアがキケロの妻に頼んでようやく渡されたと偽って語ったという。
プルタルコスはユリアを、当時の最も高貴で立派な女性の一人と評している。キケロもまた「選り抜きの女性」と呼んだとされる。彼女の人柄を示す逸話として、紀元前43年の三頭政治の粛清が語られる。アントニウスは叔父ルキウス・ユリウス・カエサルを粛清名簿に載せた。叔父はカエサルの公葬に反対し、アントニウスの農地法の廃止を取りつけるなど、その政策に逆らっていたためである。この叔父は、ユリアが介入して死を免れた。別の伝承では、殺し屋が踏み込もうとしたとき、ユリアは部屋の戸口に立ち、自分を先に殺さなければ手出しはさせないと言い放ったという。
紀元前41年から紀元前40年のペルージア戦争のころ、ユリアはローマを離れた。オクタヴィアヌスに追い出されたと主張したとされるが、のちにオクタヴィアヌスはこれを否定し、彼女に親切に接したと伝えられる。一説には、ファルウィアとともに逃れてセクストゥス・ポンペイウスのもとに庇護され、彼からアントニウスのもとへ友好の申し出とともに送られたともいう。この時、ティベリウス・クラウディウス・ネロが妻リウィア・ドルシッラと幼い息子ティベリウスとともに同行したとも伝えられる。ユリアは息子と同じくセクストゥス・ポンペイウスを決して信用せず、ギリシアのアントニウスのために立派な護衛と三段櫂船の船団を送った。三頭政治家たちの和解のあと、紀元前39年にアントニウスとともにイタリアへ戻り、ミセヌムでのセクストゥス・ポンペイウスとの会談にも同席していた可能性が高い。これが記録に残る最後の足取りである。
同じ年に亡くなった人物
- プブリウス・ウェンティディウス・バッスス (紀元前38年没)
- パコルス1世 (紀元前38年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。