伝記
プブリウス・ウェンティディウス・バッススは、共和政ローマ末期の軍人・政治家である。紀元前89年頃に生まれ、紀元前38年に没した。カエサルとアントニウスのもとで職業軍人として働き、紀元前43年には補充執政官となった。のちにはオリエントに侵攻したパルティア軍を撃退し、凱旋式の栄誉を受けている。ヴェンティディウスやベンティディウスと表記されることもある。
出身はイタリア半島のピセヌム中部、アウクシムム(現在のオージモ)に勢力を持った豪族ウェンティディウス家である。同家は同盟市戦争でローマに敵対してグナエウス・ポンペイウス・ストラボに敗れ、幼いウェンティディウスは母とともに捕えられた。母の懐に抱かれたまま、凱旋式の先頭を歩かされたという。幼少期は困窮し、のちにキケロらの著作で「騾馬追い」と呼ばれたが、これは後の創作とする説も有力である。いずれにせよ早くから一兵卒として軍務に就いたと思われ、カエサルのもとで補給と輸送の管理の専門家として経歴を積んだ。カエサルの死後はアントニウス派の将軍となり、ムティナの戦いに敗れて脱出したアントニウスを、ピセヌムで徴募したばかりの古参兵3個軍団を率いて救った。紀元前43年11月、第二回三頭政治の開始にともない、オクタヴィアヌス派のガイウス・カッリナスとともに補充執政官に就いた。残り1か月の空白を埋めるもので、アントニウスとオクタヴィアヌスが自派の者にインペリウムを与える狙いがあったと思われる。紀元前41年には北方ガリアに赴任していた。同じ年、ペルシアで救出を待つルキウス・アントニウスをポッリオとの足並みが揃わず救えなかった失敗もあったが、おおむね地味ながら確実な戦果を重ねたとされる。
紀元前40年、パルティア王子パコルスの軍がシリアを襲い、討伐に派遣されたラビエヌスがパルティア側に寝返ると、東方は深刻な脅威にさらされた。そこで派遣されたのがウェンティディウスである。紀元前39年、タウルス山脈周辺でラビエヌス指揮下のパルティア騎兵を急斜面に誘い込んで殲滅し、捕えたラビエヌスを処刑した。同年にはファルナパテスの軍も、伏兵と少数の釣り出し部隊を使った戦術で破り、捕虜となった彼は殺された。翌紀元前38年春にパコルスが再びシリアへ侵攻すると、冬営中だったウェンティディウスは偽情報を流して時間を稼ぎ、軍団を再編した。ギンダロス山周辺でパルティア軍は投石兵と重装歩兵の前に壊滅し、パコルスは戦死した。
ウェンティディウスはアントニウスの嫉妬を恐れて残党の追撃は控え、離反したシリアの諸部族を鎮圧した。しかしユーフラテス川沿いの現トルコのサムサトの攻略を故意に遅らせ、コンマゲネ王アンティオコスから1000タラントンの賄賂を受けたとの噂が立つ。疑いを晴らそうと服従を請うたものの、アントニウスは自らシリアに来て彼を解任した。攻略を引き継いだアントニウスも成功せず、300タラントンの賠償金で和平したため、プルタルコスはこの解任を全功績が彼に帰することを嫌った嫉妬によると断じている。
紀元前38年11月、ウェンティディウスはローマで対パルティア戦勝利の凱旋式を挙行した。プルタルコスは彼を「パルティアから凱旋式を勝ち取った唯一の人物」と称えた。しかし同年中に死去し、国葬で葬られた。凱旋式以降の動静や死の事情は不明である。その勝利はウェッレイウス・パテルクルスやタキトゥスにも讃えられ、シェイクスピアの「アントニーとクレオパトラ」にも登場する。新渡戸稲造の「武士道」には、彼の言葉として功名心にまつわる一節が引かれている。
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