伝記
グイド・ボナッティは、13世紀のイタリアで名を知られた占星術師である。北イタリアの都市フォルリの生まれで、生年は不明だが1210年ごろとする説があり、没年も1296年から1300年ごろの間と推定されている。ボローニャ大学の占星術学部で教授を務めたとも伝えられる。
1233年、ボナッティはボローニャで、ヴィチェンツァの修道士ジョヴァンニ・スキオと論争した。修道士は占星術が科学的な方法を用いていないと主張したが、ボナッティはこの論争に勝ったとされる。のちにフォルリでフランシスコ会士ウーゴ・ダ・レッジョ(通称ウーゴ・パウカパレア)とも論争した。この二度目の論争は勝敗の伝えが分かれており、敗れたためにウーゴが町にいる間は人前に出られなかったとする話もある。
ボナッティは、グイド・ノヴェッロ・ダ・ポレンタやグイド・ダ・モンテフェルトロといった領主に仕えて助言を与え、フィレンツェ、シエナ、フォルリの各都市のためにも働いた。1246年には、フォルリの塔の上から異常な天文や気象の兆しを観察し、教皇インノケンティウス4世が皇帝フリードリヒ2世とその同盟者を暗殺しようとする陰謀の噂を裏づけたという伝承がある。このため皇帝やエッツェリーノ・ダ・ロマーノに仕えたのではないかという推測もあるが、確かではない。1260年にはフィレンツェとシエナの同盟の場に立ち会い、このときにギベリン派がモンタペルティの戦いで勝利すると予言した。その予言が的中したため、名声が大いに高まったとされる。
1277年ごろ、ボナッティは天文学と占星術に関する大著『リベール・アストロニア』をまとめた。プトレマイオスの天文学の基本を述べたうえで、自身の研究と観測の成果を加えた書物で、ボナッティは、それまで知られていなかった星を700個発見したと自負していたという。年代記作者のジョヴァンニ・ヴィッラーニは、その説明が平易で、少女にも理解できるほどだったと伝えている。
1282年、教皇マルティヌス4世がフランス軍をフォルリに差し向けた。フォルリは当時イタリアに残るギベリン派の最後の拠点だった。フランス軍は長く町を包囲したが、民兵を率いたグイド・ダ・モンテフェルトロの戦略と、その助言者であったボナッティの働きによって大敗したと伝わる。町では、ボナッティがサン・メルクリアーレ修道院の鐘楼に実験室を構え、その上から抵抗を指揮したと語り継がれている。また、自分が包囲戦で負傷することまで予言し、それが実現したという話もある。ボナッティは晩年にフランシスコ会に入り、1300年ごろに没したともいわれる。没後も『リベール・アストロニア』は、1491年、1506年、1550年に印刷されており、後世にも関心を集めた書物であった。一方、ダンテはイスラム科学をキリスト教徒が用いることに批判的で、その影響を強く受けた占星術にも否定的であり、『神曲』ではボナッティを地獄に置いている。
同じ年に亡くなった人物
- アジャミ・ナクチヴァーニ (1300年(推定))
- ニムバルカ (1300年没)
- アドネ・ル・ロワ (1300年)
- ヨハン1世 (ニュルンベルク城伯) (1300年没)
- Dobromir Chrysos (1300年(推定))
同じ地域に関係する人物
- アントニオ・ベルナッキ (1756年没)
- グイド・レーニ (1642年没)
- アウグスト・リーギ (1920年没)
- アレッサンドロ・ストラデッラ (1682年没)
- ラウラ・バッシ (1778年没)