伝記
ゲオルギ1世テルテルは、第二次ブルガリア帝国の皇帝(ツァール)で、在位は1280年から1292年である。生まれた年は分かっていない。祖先も明らかではなく、ビザンツの記録には、クマン人とブルガリア人の混血と記されている。テルテルという名は、クマン人の氏族テルテロバを思わせるともいわれる。エルテムルという兄弟がおり、デスポトの地位にあった。
1279年、農民イヴァイロが反乱によってブルガリアの帝位に就くと、ビザンツ帝国はイヴァイロ討伐の軍を送った。イヴァイロはビザンツ軍とモンゴル軍の両方を撃退するため親征に向かったが、やがてタルノヴォでは、イヴァイロが戦死したという噂が流れ始めた。タルノヴォの貴族の中心にいたゲオルギは、ビザンツと結びつきのあるイヴァン・アセン3世を、タルノヴォに迎え入れた。1279年にイヴァン・アセン3世が即位を宣言したとき、彼はゲオルギと同盟して立場を固めようとした。ゲオルギは妻マリアと息子テオドル・スヴェトスラフを人質としてビザンツに送り、イヴァン・アセン3世の姉妹キラ・マリアと結婚した。これによって、ビザンツとブルガリアの宮廷で、デスポトとして高い地位を得た。
生き延びていたイヴァイロはビザンツ軍に勝ってタルノヴォに戻り、イヴァン・アセン3世はビザンツの宮廷に亡命した。ゲオルギは利己的なタルノヴォの貴族たちに支持され、皇帝に即位した。イヴァイロの軍と争ったが、イヴァイロの軍は疲弊して農民たちが戦線から離れ、困窮したイヴァイロは、ジョチ・ウルスの有力者ノガイのもとへ逃れた。ゲオルギはシチリア王カルロ1世、セルビアのステファン・ドラグティン、エピロス専制侯国と同盟してビザンツに対抗した。しかし、シチリアの晩祷によってシチリア王国は混乱し、1282年に同盟は破棄された。同じ1282年には、ビザンツ皇帝ミカエル8世が没し、ゲオルギは交渉を再開して、人質に送った妻マリアの返還を求めた。協定の結果、マリアがブルガリアに帰り、代わりに皇后だったキラ・マリアが、人質としてビザンツに送られた。ゲオルギは、帰国したテオドル・スヴェトスラフを共同統治者に任命した。このころブルガリアはしばしばノガイに侵入され、国土は荒れた。ゲオルギは、セルビアに援助を求め、1284年に娘のアンナを、ステファン・ウロシュ2世ミルティンのもとに嫁がせた。1285年のノガイの侵入のあと、ゲオルギは人質としてテオドルをノガイのもとへ送り、娘をノガイの子チャカに嫁がせた。
弱い王権のため、ゲオルギは各地のデスポトやタルノヴォの政敵を抑えきれず、皇帝というよりも、デスポトたちのなかの有力者という立場にあった。在位中にブルガリアはトラキアをビザンツに奪われ、マケドニアの領地も、ビザンツとセルビアに分割された。1292年、ノガイの圧力を受けたゲオルギはビザンツへ亡命した。皇帝アンドロニコス2世は、モンゴルとの関係の悪化を恐れて受け入れを拒み、ゲオルギはアドリアノープル近郊で待たされた。最後にはアナトリア半島に送られ、それから10年間の暮らしは明らかになっていない。
1301年、ブルガリア皇帝となっていたテオドル・スヴェトスラフは、ビザンツ軍を破り、ゲオルギの返還を求める人質として、13人の高官を捕らえた。帰国したゲオルギは、テオドルに対する発言力をもたず、息子から与えられた町で裕福な余生を送った。イヴァノヴォ近郊の教会には、1308年か1309年にゲオルギが没したと簡潔に記した碑文が納められている。
同じ年に亡くなった人物
- アジャミ・ナクチヴァーニ (1300年(推定))
- ヤフヤー・ブン・マフムード・ワースィティー (1300年(推定))
- Alexius Slav (1300年(推定))
- グイド・ボナッティ (1300年代没)
- デスピナ (イルハン朝) (1300年(推定))
同じ地域に関係する人物
- イワンカ・フリストワ (2022年没)
- ツベタンカ・フリストワ (2008年没)
- フリスト・ムラデノフ (1996年没)
- プレシアン1世 (852年没)