HISTORICAL PERSON · 1940年没

キュオスティ・カッリオ

フィンランドの政治家。独立宣言の起草と採択に関わり、農業大臣や国会議長、首相を経て大統領を務めた。在任中に死去した唯一のフィンランド大統領。

生涯
1940年没
死亡地
フィンランド共和国(ウーシマー県 / ヘルシンキ中央駅)
出生地
フィンランド共和国(ニヴァラ)
出典
世界地図
フィンランド共和国(ウーシマー県)

伝記

キュオスティ・カッリオは、1873年4月10日、ロシア帝国の自治領だったフィンランド大公国のユリヴィエスカに、グスタフ・カッリオカンガスの名で生まれた。父ミッコは農場主であり、地元で著名な政治家でもあった。少年の暮らしには、父のいとこで独身、子のなかったアントゥーナ・カンガスがかかわり、この叔母の取り計らいで、1886年にラーヘの中学校に通うことになった。その後オウルで教育を受け、のちに農民同盟の思想家となる作家サンテリ・アルキオと知り合った。カッリオは、フィンランド大統領のなかで唯一、大学の学位などを持たなかった人物でもある。

最初のロシア化政策の時期に青年フィンランド党員として政治に入り、1904年から1906年まで、農民身分の代表として議会で働いた。1906年に新しくできた農民同盟に加わり、その主要な指導者の一人と目されるようになった。1917年の二月革命でニコライ2世が退位すると、ロシア臨時政府が派遣した副提督ネペーニンのもとで、3月17日に政治家たちの協議が開かれ、カッリオは農民同盟を代表して加わった。翌日にはロシア化政策の停止を交渉するため、ペトログラードへ代表団の一員として赴いた。交渉は成功し、フィンランドは議会主義の元老院を組織することが認められた。カッリオはトコイの元老院で農務を担当し、農業ストの調停と食料の確保に奔走した。

その後、国内の最高権力がロシア臨時政府と議会と元老院のどこにあるのかが争われ、左右の対立が深まった。カッリオは当初、権力を議会に移すよう求める社会主義者に同調したが、彼らがロシアのボリシェヴィキなどと協力することには賛成せず、社会主義者が起草した法案には最終的に反対票を投じた。それでも法案は可決され、ケレンスキーは9月8日に議会を解散した。十月革命の後、スヴィンヒュー率いる元老院でふたたび農務を担当した。12月4日に元老院が独立宣言を議会に提出し、翌日、カッリオが決議文を起草して、議会は100対88でこれを可決した。独立宣言書には、その署名者の一人として名を連ねている。

内戦のあいだは、白軍側だったために「階級の敵」とされ、赤軍が支配するヘルシンキに身を隠した。ドイツ軍が市内の赤軍を破った後、新しい元老院を組織した。のちには穏健な調停者として、赤軍側への報復に反対した。1918年の国家体制の議論では、君主制ではなく共和制を支持して元老院を辞したが、君主制派が敗れたため閣僚に戻り、首相となった。教育、入植、土地改革を重んじる改革派で、最大の功績は1922年のカッリオ法である。国が土地を買い上げ、小作人や土地を持たない農村の人々が小さな農場を買えるようにした。首相は4回、議長は6回務めた。1922年に首相に就任した際にはフィンランド共産党を弾圧し、これに反発して台頭した極右のラプア運動から指導者に望まれたが拒み、スヴィンヒュー大統領とともに弾圧した。

1937年、現職のスヴィンヒュー大統領を破って大統領に選ばれた。1939年にソ連の領土割譲案を退けたことから冬戦争が起こると、予算不足を理由に国防委員会議長の辞任を表明していたマンネルヘイムを説得し、最高司令官に任命して戦争指揮を一任した。自身は精神的な指導者の役割を果たした。モスクワ講和条約の署名の前後から健康が悪化し、辞表を出して帰宅する途中の1940年12月19日夜、ヘルシンキ中央駅で心臓発作を起こして死去した。辞任した初の大統領であり、在任中に亡くなった唯一の大統領でもある。

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