伝記
カール・ボッシュは、1874年8月27日にケルンで生まれ、1940年4月26日に没したドイツの化学者、工学者、経営者である。1908年から1913年までフリッツ・ハーバーとともにハーバー・ボッシュ法を開発し、1931年に高圧化学的方法の発明と開発によってノーベル化学賞を受賞した。
父はシュヴァーベンの農家の出身で、ケルンで配線事業やガス・水道用部品の製造・販売をしていた。ロバート・ボッシュ社の創立者ロバート・ボッシュは叔父にあたる。幼いころから父の工具や機械に興味を示し、高等実業学校に入ってからは、家で鳥かごや飼育箱、ボートなど様々なものを細工した。16歳の頃には化学を好むようになり、器具を入手して実験をしていた。1893年に学校を卒業した時には化学者になりたいと思っていたが、父の勧めでシレジアの精錬所で組立工の徒弟として学んだ。本意ではなかったが、仕事仲間からの評価は高かった。翌1894年、シャルロッテンブルク工科大学に冶金学と機械工学の学生として入学を認められ、化学の講義も受けたが、職人が感覚で導いた値を優先する校風に不満を抱いた。純粋な科学に魅力を感じてライプツィヒ大学に入り、ウィスリセヌスのもとで有機化学を学んで、1898年に学位を得た。
このまま学問の道を進みたかったが、経済的な理由で父に反対された。教授から希望先を聞かれると、その場でバスフの名を挙げた。1899年1月30日付けで求職願いを出し、4月15日に採用された。中央研究室を経て無水フタル酸の製造工場に回され、1900年にはクニーツからアンモニア合成の実験を命じられた。当時、オストヴァルトが鉄の針金を触媒にしてアンモニアを作ることに成功したと発表し、バスフは追試を入社1年足らずのボッシュに任せた。ボッシュは何度やっても再現できないと報告し、怒ったオストヴァルトは重役室にまで来たが、結局うまくいかなかった。やがて針金に不純物の窒化鉄が付着していて、それが水素と反応してアンモニアができていたのだと分かった。オストヴァルトもそれを認め、特許を取り下げた。この件で、化学界の大物にもひるまず自己を貫いたことが評価され、上司の信頼を得た。1902年に結婚した。
1909年、バスフはハーバーから、高温・高圧下でオスミウムを触媒にしてアンモニアが合成されるという報告を受けた。100気圧が必要というこの方法に、研究部長が「7気圧の圧力釜が爆発したんだぞ」と叫ぶ中、ボッシュは鉄鋼業界の能力を知るとして、賭けてみるべきだと言った。大型の装置が2台爆発するなど困難が相次いだが、工夫で乗り越え、1911年には仮工場で1日に2トン以上のアンモニアが作れるようになった。新工場の建設は1913年に稼働した。
第一次世界大戦で染料の販路がなくなる一方、弾薬に使う硝酸の需要が急増した。チリ硝石の輸入が途絶えたドイツに、ボッシュはアンモニアから硝酸を大量に供給できると宣言した。1915年5月にオッパウ工場で1日150トンのチリ硝石を作り、1916年からはロイナ工場の建設に専念した。1917年4月27日に炉に火がつけられ、生産量は戦争が終わる頃には年間16万トンになった。戦争中にバスフの取締役に任命されたが、自分の進めた研究が戦争を長引かせたのではないかと悩むこともあった。1919年のベルサイユの和平交渉に参加し、オッパウとロイナ両工場の操業継続を認めさせ、バスフの取締役会長となった。1925年にはIG・ファルベンの創立者の一人となり、戦後は高圧化学を用いてガソリンやメタノールの合成の研究を続けた。
同じ年に亡くなった人物
- オーティス・ハーラン (1940年没)
- レイモンド・アンウィン (1940年没)
- レイモンド・パール (1940年没)
- ヘルムート・ヴィック (1940年没)
- ハロルド・ハームズワース (初代ロザミア子爵) (1940年没)
同じ地域に関係する人物
- フリードリッヒ・ポッケルス (1913年没)
- アルプレヒト・ベルブリンガー (1829年没)
- アントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボー (1840年没)
- フーゴー・エッケナー (1954年没)
- エルンスト・ゴットリープ・フォン・ストイデル (1856年没)