伝記
アルフォンス・ミュシャは、1860年7月24日、オーストリア帝国領モラヴィアに生まれた、チェコ出身のグラフィックデザイナー・イラストレーター・画家である。本名はアルフォンス・マリア・ムハといい、「ミュシャ」はフランス語の発音による表記である。ブルノの中学校に入って教会の聖歌隊となり、はじめは音楽家を志した。仲間にはレオシュ・ヤナーチェクがいた。1875年に声が出なくなって志を諦めたが、もともと絵が得意で、夏休みには合唱隊の聖歌集の表紙を描いたこともあった。中学校を中退して地方裁判所で働いたのち、19歳でウィーンに行き、舞台装置の工房で働きながら夜間のデッサン学校に通った。この頃にハンス・マカルトの作品に触れ、多大な影響を受けた。2年後、劇場の火事で職を失ったが、1883年にミクロフでクーエン・ブラシ伯爵に会い、その弟のエゴン伯爵がパトロンとなった。25歳のときにはエゴン伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学し、卒業後、28歳でパリに出てアカデミー・ジュリアンに通った。
パリでの初期は雑誌の挿絵で生計を立てていたが、次第に認められ、大出版社アルマン・コランの挿画家として活躍するようになった。東洋的な情景を描いた『白い象の伝説』(1894年)や、33点の木版画を収めた『ドイツ歴史の諸場面とエピソード』(1896年)などが同社から出版されている。
出世作は、1895年に舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作った『ジスモンダ』のポスターである。ベルナールが年の瀬に急にポスターを発注することにしたが、主だった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いていたミュシャに飛び込みで依頼が来たのだった。威厳のある人物と細部まで繊細な装飾からなるこの作品は大好評を博し、文字どおり一夜にして、彼はアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものにした。ベルナールにとっても、この作品がフランス演劇界の女王として君臨するきっかけとなった。その後も『椿姫』『メディア』『トスカ』などベルナールのポスターを手がけた。煙草用巻紙、シャンパン、自転車などの広告ポスターも制作しており、1896年の煙草用巻紙会社のポスターは大変人気があり、コレクター用に小型判が作られた。装飾パネルも多く、『四季』(1896年)、『四芸術』(1898年)、『四つの花』(1898年)、『四つの宝石』(1900年)、『四つの星』(1902年)などは、女性の姿を用いて、さまざまな寓意を表現している。
アメリカの富豪から金銭的な援助を受けて財政的な心配がなくなった彼は、1910年に故国チェコへ帰り、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩』を制作した。スメタナの連作交響詩『わが祖国』を聴いたことが構想のきっかけといわれ、完成までにおよそ20年を要した。この時期には、チェコ人の愛国心を喚起する作品群やプラハ市庁舎のホール装飾も手がけた。1918年にチェコスロバキアが成立すると、新国家の紙幣や切手、国章をデザインし、財政難の国を慮って無報酬で請け負ったという。
1939年3月にナチス・ドイツがチェコスロヴァキアを解体すると、入城したドイツ軍は、絵画がチェコ国民の愛国心を刺激するという理由でミュシャを逮捕した。厳しい尋問は78歳の身に大きな負担となり、まもなく釈放されたが、4か月後の7月14日に体調を崩して亡くなった。遺体はヴィシェフラド民族墓地に埋葬された。戦後の共産党政権は彼の存在を黙殺したが、1960年代以降のアール・ヌーヴォー再評価とともに、現在はチェコを代表する国民的画家として認知されている。
同じ年に亡くなった人物
- クジマ・ペトロフ=ヴォートキン (1939年没)
- ルイス・ウェイン (1939年没)
- ヨーゼフ・ロート (1939年没)
- ナデジダ・クルプスカヤ (1939年没)
- フィリップ・シャイデマン (1939年没)
同じ地域に関係する人物
- ヤン・パトチカ (1977年没)
- ブジェチスラフ・ポヤル (2012年没)
- フランティシェク・クサヴェル・ブリクシ (1771年没)
- アルカディ・アヴェルトチェンコ (1925年没)
- ヴラジスラフ1世 (1125年没)