伝記
ナデジダ・コンスタンチノヴナ・クルプスカヤは、1869年2月26日(ユリウス暦2月14日)、サンクトペテルブルクに生まれたソビエト連邦の政治家、革命家、教育家で、ウラジーミル・レーニンの妻である。没落した貴族の家に生まれ、父コンスタンチンは帝国陸軍の将校であった。母は土地を持たない貴族の娘で、ベストゥージェフ女子高等課程で学んだのち、家庭教師として働いていた。教養ある親の下で育ち、貧しい人々の労働の実態にも触れたことが、のちの信念を形作ったとされる。友人は彼女を、背が高くもの静かで、すでに強い信念を固めていた少女と評した。父の死後は母とともに家庭教師で生計を立てた。教育の道に関心を持ち、個々の生徒の成長と教師との関係を重んじるトルストイの教育論に引かれた。
学問を続けるために討論のサークルに加わり、そこでマルクスの理論に出会った。禁書だったため、革命家たちは地下の図書室にそれを集めていた。1890年に技師ロベルト・クラッソンの組織するマルクス主義のサークルに入り、翌年には労働者の成人のための日曜学校で働いた。夜間学校で教えながら研究サークルに参加するうち、1894年2月に、のちのレーニンと出会った。最初は演説に感心しながらも、人柄には引かれなかったという。1896年に煽動罪に問われて逮捕され、流刑先のウファでレーニンと再会して、1898年7月に結婚した。1900年に夫とともにヨーロッパへ亡命し、パリ、ロンドン、ジュネーヴなどを回った。ドイツで雑誌『イスクラ』(火花)を発刊し、夫とともに党の創立に尽力した。2人の間に子は生まれなかった。
1917年の二月革命で皇帝ニコライ2世が退位すると、夫とともにペテルブルクに帰還し、十月革命の後は教育人民委員会の委員に任命された。ピオネール運動を組織するなど教育家として大きな成果を挙げたが、検閲と反宗教宣伝にも熱心だった。1922年に夫が病気で静養に入った後は、その求めで絶えず政治局との仲介役を務めた。グルジア問題で対立していたスターリンは、同年12月、レーニンに政治活動をさせないよう彼女を電話で叱責した。これを知ったレーニンは、翌1923年3月5日、スターリンに発言の取り消しか謝罪、でなければ関係を断つ覚悟を迫る手紙を送った。発作で意思疎通ができなくなった後も、クルプスカヤは夫の死まで献身的に介護し、この間に手記『ウラジーミル・イリイッチの生涯の最後の6ヶ月』を書いたが、公表は死から半世紀が過ぎた1989年だった。
1924年のレーニンの死後は、スターリンの台頭を防げなかった。彼女はジノヴィエフやカーメネフに同情的だったが、二人の失脚後に政治的に孤立した。1924年に党中央委員会の委員となり、1926年には『レーニンの思い出』を発表した。1929年から没年まで教育人民委員代理を務め、ソ連の教育制度や図書館学の発展に強い影響を与えた。1936年にソ連政府が妊娠中絶を再び違法とした際には、これを擁護した。1939年2月27日、70歳の誕生日の翌日にモスクワで亡くなった。公式の死因は食中毒で、誕生会のケーキを食べた後に気分が悪くなって病院に運ばれ、意識が戻らなかったという。ケーキを食べた参加者のうち、病に倒れたのは彼女だけで、スターリンの関与を疑う説も根強い。遺体はレーニン廟の近くに葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- マドレーヌ・ペルティエ (1939年没)
- エードゥアルト・フィッシャー (菌類学者) (1939年没)
- アルブレヒト・フォン・ヴュルテンベルク (1939年没)
- イワン・モジューヒン (1939年没)
- エフゲニー・ミレル (1939年没)
同じ地域に関係する人物
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- ニコライ・カメンスキー (2017年没)
- ニコライ・ブルデンコ (1946年没)
- リュドミラ・グルチェンコ (2011年没)
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