伝記
ダグラス・フェアバンクスは、1883年5月23日、コロラド州デンバーに生まれた俳優、脚本家、映画監督、映画プロデューサーである。出生時の姓はウルマンといった。父のチャールズ・ウルマンはペンシルベニア州のユダヤ人の家庭に生まれた弁護士で、デンバーには鉱山への投資のために移り住んだ。母エラ・マーシュは、先夫フェアバンクスを亡くし、事業の仲間に財産をだまし取られた女性だった。夫妻の間に長男ロバートが生まれ、翌年に次男のダグラスが生まれたが、父は妻の不貞を知って、ダグラスが5歳のときに家族のもとを去った。兄弟は母に育てられ、母は最初の夫にちなんで彼らにフェアバンクスの姓を与えた。
若いころからデンバーのアマチュア劇団の舞台に立ち、夏の公演などに出演した。高校は問題を起こして退学になったとされ、1899年春、15歳で学校を離れて巡業の劇団に加わり、二つの季節を各地で過ごした。のちにコロラド鉱山学校やハーバード大学に通ったと語ったが、どちらも事実ではないとされる。その後ニューヨークに移り、1902年2月にブロードウェイで初めての役を得た。俳優の仕事の合間に、金物店の店員やウォール街の事務員もして働いた。1907年には裕福な実業家の娘アンナ・ベス・サリーと結婚し、1909年に息子のダグラス(のちの俳優ダグラス・フェアバンクス・ジュニア)が生まれた。一家は1915年にロサンゼルスへ移った。
1915年、D・W・グリフィスのファイン・アーツ社と週給5000ドルで契約して映画界に入り、同年公開の『快男子』で映画デビューした。これは大ヒットを記録した。翌1916年にはグリフィス監督の名作『イントレランス』に端役で出ている。たちまち人気俳優となり、同年に映画製作会社フェアバンクス・ピクチャーズを設立した。1919年にはグリフィス、チャールズ・チャップリン、メアリー・ピックフォードとともにユナイテッド・アーティスツ社を設立した。その後、『奇傑ゾロ』『三銃士』『ロビン・フッド』『バグダッドの盗賊』などの冒険活劇でヒーロー役を演じて絶大な人気を得た。ほとんどの作品のアクションをスタントなしで演じ、アクロバティックな動きでも人気があった。
1916年にパーティーでピックフォードと出会い、双方に配偶者がいたが交際するようになった。1919年に彼が、翌年に彼女が離婚し、1920年に二人は結婚して、ハリウッドの王と王妃のような存在になった。二人は1936年に離婚している。1927年には映画芸術科学アカデミーの初代会長に就任し、名実ともにアメリカ映画界の頂点に立ち、1929年の第1回アカデミー賞の授賞式では司会も務めた。1929年に初来日し、1931年には『ダグラスの世界一周』の撮影でも日本を訪れた。この頃、ヨーロッパへ向かう船で、ロサンゼルス五輪の金メダリストの西竹一男爵と親交を結んだ。トーキーの到来とともに人気は低迷し、1934年の『ドン・ファン』を最後に引退した。以後は息子の主演作を製作していたが、1939年12月12日、サンタモニカで心臓発作により死去した。墓はハリウッド・フォーエバー墓地にある。ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、息子とともに名前が刻まれている。
同じ年に亡くなった人物
- スビ・バラカット (1939年没)
- クロード・スワンソン (1939年没)
- アンブロワーズ・ヴォラール (1939年没)
- ピウス11世 (ローマ教皇) (1939年没)
- アンリ・ジャスパール (1939年没)
同じ地域に関係する人物
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- コンラッド・ヒルトン (1979年没)
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- ジェームズ・フレイヴィン (1976年没)
- アーサー・ヒラー (2016年没)