伝記
ピウス11世は、本名アンブロージョ・ダミアーノ・アキッレ・ラッティといい、1857年5月31日、ロンバルド・ヴェネト王国のデージオに生まれたローマ教皇である。五人きょうだいの四番目で、父フランチェスコは絹工場の責任者として各地の工場を転々とし、母テレーザ・ガッリはサロンノ出身の宿屋の娘であった。1867年からセヴェーゾの神学校で学び、ついでモンツァの神学校に進み、1874年からは在俗フランシスコ会に属した。1879年にローマのロンバルド学院に学び、同年12月20日に司祭に叙階された。ローマでは哲学、教会法、神学の三つの学位を取るほど博学であり、ダンテやマンゾーニなどの文学や、科学にも強い関心を持っていた。ミラノの神学校で数学を教え、地質学者ジュゼッペ・メルカリと親交を結んだこともある。
ミラノではヘブライ語も学び、1907年にはこの神学校で教えた。授業で生徒をミラノのシナゴーグに連れて行き、ヘブライ語を耳に慣れさせる試みは、神学校としては大胆であった。ミラノのアンブロジアーナ図書館に勤めて古文書を調べ、ミラノ教区の記録集成の刊行にも携わり、1907年には同館の館長となった。やがて外交の分野に移り、第一次世界大戦中の1917年から1918年にかけて、教皇の訪問使節としてポーランドとロシアに派遣された。1919年にはワルシャワ駐在の教皇大使として赴任し、同年2月にポーランド・ソビエト戦争が始まっても、危険を冒して大使館に留まり、教皇の使者としてカトリック国ポーランドを支えた。その後ミラノ大司教を経て、1922年2月6日に教皇に選出され、ピウス11世を名乗った。
教皇としては文化と政治の両面で目覚ましい働きをし、バチカンの絵画館、バチカン放送、教皇庁科学アカデミーは、いずれもその時代につくられた。19世紀以来、バチカンはイタリア王国政府と断絶状態にあったが、ムッソリーニと交渉し、1929年2月11日にラテラノ条約が結ばれた。バチカンはイタリア政府を認め、イタリア政府はバチカンを独立国として認めて、「バチカンの囚人」の状態が解消され、バチカン市国が成立した。同時に広大な教皇領の返還をあきらめることになり、代償の7億リラは以後の財源となったという。ただしファシスト政権との関係は良好でなく、1931年の回勅『ノン・アビアモ・ビゾーニョ』で、ファシスト党を公式に非難した。1933年にナチ政権が成立すると、同年7月にドイツとの間でライヒスコンコルダートを結んだ。反共産主義で一致していたことや、ドイツ領内のカトリック教徒の保護が、その背景に挙げられる。しかしナチスは条約を無視して青年運動などを禁じた。教皇は1937年の回勅『ミット・ブレネンダー・ゾルゲ』で、ナチスが人種や民族、国家を神格化していると非難し、同年の『ディヴィニ・レデンプトーリス』では共産主義を容認できないと断じた。
1931年の回勅では労働者の尊厳をあらためて強調し、教会の壁を越えて現実社会に関心を持ち続けた。教会の面では「王であるキリスト」の祝日を定めた。1939年2月10日、第二次世界大戦が始まる約7か月前に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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