伝記
ウィリアム・バトラー・イェイツは、1865年6月13日、ダブリン県サンディマウントに生まれたアイルランドの詩人、劇作家、思想家である。20世紀の英語圏で最も偉大な詩人の一人とされ、1923年にノーベル文学賞を受けた。生家は、数代前にイングランドから移住したプロテスタントの家系で、曾祖父と祖父は教区牧師だった。ミドルネームは、曾祖父の母の実家である名家バトラー家に由来する。土着のカトリックの人々とは区別される立場にあり、この「アングロ・アイリッシュの孤独」が幼年時代のジレンマの核となった。父ジョンは法律家として嘱望されていたが、子が生まれると画家になる決意を固めて、単身ロンドンへ渡った。母スーザンはスライゴの裕福な商人の家の娘で、土地の民間伝承に親しみ、漁師たちから話を聞くのを好んだ。妹のリリーや弟のジャックも芸術の道に進んだ。
2歳でロンドンの父のもとへ移ったが、約2年はスライゴの祖父母に預けられ、8歳までは野育ちのように育った。文法はわからず、字は汚く、生涯スペルを間違えたという。9歳でロンドンに呼び戻され、12歳からの約4年間ハマスミスの学校に通ったが、アイルランド訛りのために「頭のおかしいアイルランド人」と罵られ、暴力を振るわれた。この環境で、スライゴへの郷愁とロンドンへの憎悪が育った。スライゴの湖にあるイニスフリー島で暮らすことが少年時代の夢で、のちの有名な初期の抒情詩「湖の島イニスフリー」につながった。母の実家の人々から聞いた伝承や妖精の話は、のちの詩作の重要な着想源となった。
15歳の頃、土地に抵当権が重なって売却され、地代収入がなくなった一家は、1881年にダブリン県へ戻った。ギリシア語とラテン語を父に習ったが、学力では大学進学が難しいと言われ、画家を志してメトロポリタン美術学校に入った。そこで出会った幻視者ジョージ・ウィリアム・ラッセルから神秘思想や東洋の宗教を学び、友人らとオカルティズム研究会「ダブリン神秘哲学協会」を組織した。1885年、20歳のとき、「妖精たちの歌」などの詩が初めて雑誌に掲載された。同年、フェニアン運動の指導者ジョン・オリアリーと出会い、愛国主義者としての自覚を持つようになった。アイルランドの歴史や伝説、民話を深く研究し、これを題材に物語を書き始めた。アイルランドの文化が世界に通用する独自の豊かなものだと知らしめることが、彼のナショナリズムだった。
その後、妖精譚などを題材にした抒情詩で注目され、民俗学の方面でも優れた業績を残した。オーガスタ・グレゴリーとともにアイルランド独自の演劇の活動を始め、イギリス人資産家の資金援助を得て、戯曲を書き、仲間と劇場を設立し、運営した。1916年初演の戯曲「鷹の井戸」は、日本の能の影響を受けて書かれた。1922年から6年間はアイルランドの上院議員も務めた。後期の詩集『塔』(1928年)や『螺旋階段』(1933年)は、唯美主義を脱して現実と向き合う詩として、最も高く評価されている。「夢見るケルト」と呼ばれる天上的な抒情詩人でありながら、政治家の職務に励み、瞑想的な詩作も深めるという、多重的な人生を送った。1939年1月28日に没した。評価は死後急速に確立した。
同じ年に亡くなった人物
- コンスタンチン・コローヴィン (1939年没)
- エドワード・サピア (1939年没)
- エフゲニー・ミレル (1939年没)
- ポリーナ・オシペンコ (1939年没)
- Robert Farnan (1939年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェイムズ・ボールドウィン (1987年没)
- マリーア・テレーザ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1909年没)
- エレナ・ペトロヴナ (1962年没)
- ピョートル・ニコラエヴィチ (1931年没)
- クラウス・マン (1949年没)