伝記
チンキムは、モンゴル帝国(元)の皇族で、クビライの次男である。漢字では真金と書く。1243年7月8日、クビライと皇后チャブイのあいだに生まれた。兄のドルジが早く亡くなったため、事実上の嫡長子にあたった。名の真金は、生まれたときに禅僧の海雲がつけたもので、「まことの金」を意味するという。クビライが兄のモンケの時代に中国の経略を任されていたので、チンキムは本拠地の開平府で、姚枢らクビライの漢人のブレーンに囲まれて育った。竇黙、劉秉忠、王恂らからも学び、『詩経』や『孝経』を読んだ。儒教の強い支持者として知られ、チベット仏教の指導者パクパとも親しく、パクパは彼のために『知るべきものの解説』という論書を書いた。
クビライが即位すると、チンキムは1263年に燕王に封じられた。中書令に任じられた時期は、1262年とも1263年ともいわれ、新しくできた中央の行政機関である中書省を預かり、上都や大都を中心とする華北の統治を任された。1264年には枢密院の判枢密院事も兼ね、クビライの宮廷が置かれる中国北部の政治と軍事を支配する強い権限を得た。幼いころから漢人を理解していた彼は、中書省に集められた漢人官僚の支持を受けた。中書省の右丞相アントンは母方の従弟であり、双方の母の実家であるコンギラト部を筆頭に、モンゴル貴族もチンキムの味方についた。1273年に皇太子に立てられ、クビライの後継者としての地位を固めた。
ところがクビライは、皇后チャブイの用人だったアフマドを信任し、華北の財政長官に取り立てて、財政をほぼ任せた。アフマドらイスラム教徒の財務官僚と、チンキムのもとに集まる漢人やモンゴル人とのあいだで、統治の方針と権限の範囲をめぐって、水面下の対立が続いた。1281年、アフマドの後援者だった母のチャブイが亡くなると、両派の政争は激しくなり、1282年にチンキム派の漢人官僚の手でアフマドが暗殺された。『集史』は、これをチンキムの陰謀だったと伝える。アフマドの死後は、皇太子の権限に口を出せる有力者がいなくなり、チンキムの派閥は華北で独裁的な力を振るった。
1285年には、南方の儒学の素養のある官僚が、クビライに譲位を進言しようとした。チンキムはこの動きを止めようとしたが、クビライはそれを知って激怒し、チンキムは恐れたとも伝わる。1286年1月5日、チンキムは突然病死した。飲酒が原因とされ、父のクビライが亡くなる8年前のことだった。クビライは深く悲しみ、チンキムの子テムルを皇太子とした。1293年2月25日には、チンキムに太子明孝の諡号を贈った。
チンキムには、正妃ココジンのほか側室のアンチンミシもいた。ココジンとのあいだには、長男カマラ、次男ダルマバラ、三男テムルの3人の男子がいた。ダルマバラは、のちのカイシャンとアユルバルワダの父である。娘のクダドミシュはオングト部のコルギスに、ナンガブラはコンギラト部のマンジタイに嫁いだ。チンキムの死後、皇太子府の広大で豊かな所領と財産は、ココジンに引き継がれた。クビライの死後、ココジンは三男のテムルを即位させた。1294年6月3日、成宗テムルは亡き父に文恵明孝皇帝の諡号と裕宗の廟号を贈り、チンキムは皇帝に準ずる祭祀を受けるようになった。
同じ年に亡くなった人物
- Gurcu Hatun (1286年没)
- アブー・ユースフ・ヤアクーブ (1286年没)
- エーリク5世 (デンマーク王) (1286年没)
- ムールベケのグイレルムス (1286年)
- Al-Baydawi (1286年没)
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