伝記
ファルナケス2世は、ポントス王国とボスポロス王国の国王で、在位は紀元前63年から紀元前47年までである。生年は不明だが、紀元前97年とされることもある。ポントス王ミトリダテス6世の末の子で、最初の妻であり姉妹でもあったラオディケ王妃から生まれた。ペルシアとギリシアの血を引き、ポントスで生まれ育った。兄にアリアラテス9世がいる。父の後継者として育てられ、厚遇されていたという。ただし若いころのことは古代の著述家からはほとんど分からず、史料に初めて現れるのは、父がローマの将軍ポンペイウスに敗れた第三次ミトリダテス戦争の終盤である。
ミトリダテス6世は黒海北岸からイタリアへ攻め込む計画を立てていたが、その規模の大きさに多くの兵が嫌気を示した。ファナゴリアの町が叛き、黒海東岸の城砦の多くも離反し、続いてファルナケスも父に背いた。ある記述では、陰謀が発覚して捕らえられたものの、ミトリダテスに許されたとされる。しかし父の怒りを恐れたファルナケスは、近くに陣を張っていたローマの脱走兵たちに遠征の危険を説いて離反を促し、ほかの陣営にも人を送った。翌朝に反乱が起こり、ミトリダテスは逃れ、ファルナケスは軍によって王と宣言された。別の記述では、父のいたパンティカパイオンがファルナケスに降伏し、父は殺されたとされる。父は毒を飲んだが、毒に慣らした体質のため効かず、近くの者に殺させたとも、迫ってきた者たちと戦って死んだともいわれる。ファルナケスは遺体を使者とともにポンペイウスに送り、服従と人質を差し出した。ポンペイウスは彼を「ローマの友人にして同盟者」とし、ボスポロスの支配を認めた。ただしファナゴリアは、最初に父に叛いた褒美として独立を許された。こうして彼は、ローマに従う王として東方に残った。なお、ポンペイウスがボスポロス人とコルキス人にアリスタルコスという王を据えたとする伝えもある。のちファルナケスはファナゴリアとボスポロス周辺の町を包囲し、食糧に窮して出撃したファナゴリア人を破ったが、危害は加えず、人質を取って去ったという。これは小アジアへの侵攻より少し前のこととされる。
その後、紀元前49年にカエサルとポンペイウスの内戦が起こった。ポンペイウスを破ったカエサルがエジプトのアレクサンドリアで包囲されて苦労していたあいだ、ファルナケスは好機と見て、父がかつて支配しながらローマに奪われた土地を取り戻そうと兵を挙げた。コルキスを容易に手に入れ、ガラティア王デイオタロスの留守を突いて小アルメニアやカッパドキアの一部、ビテュニア・ポントス属州に組み込まれていた旧ポントス領の都市をも奪った。カエサルはグナエウス・ドミティウス・カルウィヌスをアジア属州のローマ軍団の指揮に送り、カルウィヌスはデイオタロスとカッパドキア王アリオバルザネス3世の軍勢を加えてファルナケスに向かったが、敗れた。
紀元前47年、ファルナケスはゼラの戦いでカエサル自身に敗れた。カエサルが戦勝を報じた「来た、見た、勝った」の言葉で知られる戦いである。ファルナケスは敗走し、本拠地のクリミア半島に戻ったが、まもなく簒奪者アサンドロスに殺された。
父を死に追いやって王位を得た人物であり、その最期もまた、自らの王国に戻ったところで反逆者の手にかかるものだった。後世には、イタリア語読みの「ファルナーチェ」の名でオペラに登場する。ヴィヴァルディが1724年に作曲したオペラや、1770年のモーツァルトのオペラ『ポントの王ミトリダーテ』の主要人物にもなっている。
同じ年に亡くなった人物
- プトレマイオス13世 (紀元前47年没)
- 解夫婁王 (紀元前 47年)
- ティトゥス・アンニウス・ミロ (紀元前47)
- Marcus Caelius Rufus (紀元前47)
- ポティノス (紀元前47)
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