伝記
ヴワディスワフ・オポルスキは、1225年、オポーレ=ラチブシュ公カジミェシュ1世の次男として生まれた。母ヴィオラはブルガリアの貴族の娘、あるいは公女とされる。1230年に父が死んだとき、ヴワディスワフと兄ミェシュコ2世はまだ幼く、母ヴィオラとヴロツワフ公ヘンリク1世(髭公)の後見を受けた。1234年、オポーレを完全に支配しようとしたヘンリク1世は、公子たちの世襲権を否定しないまま、彼らの領地をカリシュに移した。1238年、ミェシュコ2世が成年に達すると、ヘンリク1世の子ヘンリク2世(敬虔公)は、オポーレ=ラチブシュの統治を彼に引き渡さざるを得なかった。それでもヴワディスワフと母はカリシュに残り、1241年に成人するまで母が摂政を務めた。
1241年にヘンリク2世がレグニツァの戦いで戦死すると、カリシュとヴィエルニを保つのは難しくなった。ヴィエルコポルスカ公プシェミスウ1世が、カリシュを取り戻そうとしたからである。ヴワディスワフは1244年にカリシュを、1249年にはヴィエルニを失った。1246年には兄が子のないまま急死し、ヴワディスワフが遺領をすべて継いだ。公位を継いですぐ、兄が3年前に手に入れたレルフを失うという失敗を犯した。ほかの諸公と巧みに渡り合い、領地がそれ以上失われるのを食い止めた。1251年、ヴィエルコポルスカとの新しい同盟を築くため、カリシュとヴィエルニを求める主張を捨て、プシェミスウ1世の妹エウフェミアと結婚した。
結婚後まもなく、バーベンベルク家の断絶に端を発したハンガリーとボヘミアの戦争に巻き込まれた。はじめはハンガリーを支持し、ボレスワフ5世(純潔公)のオパヴァとグウプチツェへの攻撃を助けた。しかし1255年、理由は分からないが、ボヘミア王オタカル2世の側に移った。1260年には、クレッセンブルンの戦いでハンガリー人と戦った。これが実を結び、まもなく自領とボヘミア王国との国境が確定した。1262年のダンクフの会議では、オタカル2世、ボレスワフ5世、義兄のボレスワフ(敬虔公)との三者同盟を結ばせようと奔走したが、成果は得られなかった。
1273年、クラクフ公の地位をただ一度だけ狙った。ボレスワフ5世の同盟者でありながら、兵力の一部をマウォポルスカに向けたのである。決戦で敗れた。1274年には両者が和平に同意し、ヴワディスワフがクラクフへの要求を取り下げることを条件に、国境が確定した。1278年にマルヒフェルトの戦いでオタカル2世が戦死すると、ヴワディスワフはすぐにオパヴァを攻撃したが、ボヘミアでは若いヴァーツラフ2世のもと強力な摂政政治が布かれ、狙いは外れた。悪化したボヘミアとの関係を直すため、1280年か1281年のウィーンの会議に出席して、ヴロツワフ公ヘンリク4世という新しい同盟者を得た。娘のコンスタンツィアをヘンリク4世に嫁がせて同盟を結び、王位を目指す婿を支えた。
内政では、前の公たちの事業を受けつぎながら、領内の教会の影響を強めた。ラチブシュのドミニコ会、ヴォジスワフとゴウォグヴェクのフランシスコ会、オルロヴァのベネディクト会など、多くの修道院を建てた。治世のうちにマクデブルク法が、公国内のほぼすべての都市に適用された。ヴワディスワフは1282年の8月27日から9月13日のあいだ(1281年とする史料もある)に没し、ラチブシュのドミニコ会修道院に葬られた。エウフェミアとの間にはミェシュコ1世、カジミェシュ、ボルコ1世、コンスタンツィア、プシェミスワフの5人の子がいた。
同じ年に亡くなった人物
- ブカ・テムル (1282年)
- サウェリン・アプ・グリフィズ (1282年没)
- イブン・ハッリカーン (1282年)
- アネシュカ・チェスカー (1282年没)
- アバカ (1282年没)
同じ地域に関係する人物
- Wilhelm Piec (1954年没)
- バンジャマン・フォンダーヌ (1944年没)
- Jozef Gara (2013年没)
- クルト・ゲロン (1944年没)
- ダーヴィッド・フォーゲル (1944年没)