伝記
クン・ベーラは、1886年2月20日に、ハンガリー王国シラージ県のシラージチェ近郊の村レレで生まれた共産主義者、政治家である。誕生時の名はアーベル・コーンで、父サムは信仰から離れたユダヤ系の村の公証人、母はハンガリー人だが結婚に際してユダヤ教に改宗した。両親は世俗的な考え方だったが、ジラーのシルヴァニア・ギムナジウムと、コロジュヴァールの名高い改革派のコレギウムで教育を受けた。コレギウムでは、詩人ペテーフィ・シャーンドルを論じた作文で、ハンガリー文学の最優秀作文賞を得たという。1904年にコロジュヴァールのフランツ・ヨーゼフ大学で法学を学び始め、この年に姓をコーンからクンに改めたとされる。
第一次世界大戦まではジャーナリストとして、社会民主党に共感を寄せる告発調の記事を書いた。気性が激しいと評判で、何度か決闘にも関わった。1913年5月、音楽教師のガール・イレーンと結婚し、二人の子をもうけた。コロジュヴァールで知り合った詩人アディ・エンドレの紹介で、ブダペストの左派知識人たちとも交友を持った。オーストリア・ハンガリー軍に従軍し、1916年にロシア軍の捕虜となって、収容所で共産主義に触れた。ロシア革命で解放されると、1918年3月にモスクワで、元捕虜たちとともにロシア共産党のハンガリー・グループを共同で設立した。ウラジーミル・レーニンと知り合い、ボリシェヴィキの側に立って内戦を戦った。
1918年秋にオーストリア・ハンガリー帝国が敗れ、ハンガリー民主共和国が独立すると、ソビエトの支援で帰国してハンガリー共産党の指導者となった。翌1919年3月、共産党は革命を起こして、カーロイ・ミハーイの政権を倒した。クンはハンガリー・ソビエト共和国の成立を宣言し、事実上の首班となった。形式上の指導者は首相のガルバイ・シャーンドルだったが、実権は外務人民委員のクンが握り、無線電信でレーニンと直接連絡をとって助言や指示を受けた。しかし、元来保守的なハンガリー人の多くはこの政権を歓迎せず、地主、農民、カトリック教会は急進的な改革に反発して、クンは激しい弾圧でこれに応じた。
4月16日にはフランスの支援を受けたルーマニアがトランシルヴァニアから侵攻し、クンはスロバキアからチェコスロバキアを追い出すことで支持を得ようとして失敗した。6月にはホルティ・ミクローシュ率いる国民軍が蜂起し、8月にルーマニア軍がブダペストを制圧して、共和国は崩壊した。クンは一時オーストリアに亡命し、1920年7月に捕虜と交換されてソビエト・ロシアに亡命した。コミンテルンのメンバーとして活動し、1920年から1921年にかけてクリミアでの赤色テロに積極的に関わった。1921年にはドイツ共産党の指導にあたり、3月のマンスフェルトでの蜂起を指揮したが、失敗してコミンテルン第3回世界大会で激しく批判された。のちにスターリンの大粛清に巻き込まれ、トロツキズムの嫌疑で1937年5月に逮捕され、1938年8月に銃殺された。1956年に名誉回復した。死亡時期は従来1939年11月30日の獄死とされていたが、1989年になって上記の時期と判明した。
同じ年に亡くなった人物
- エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー (1938年没)
- エトムント・ランダウ (1938年没)
- エルジー・クリスラー・シーガー (1938年没)
- エゴン・フリーデル (1938年没)
- レジナルド・ジョンストン (1938年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィクトル・ヴィノグラードフ (1969年没)
- ヴィクトル・サフロノフ (1999年没)
- イーゴリ・モイセーエフ (2007年没)
- アレクサンドル・エゴロフ (1939年没)
- ミハイル・スースロフ (1982年没)