伝記
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーは、1880年5月6日にバイエルン王国のアシャッフェンブルクで生まれ、1938年6月15日に没した20世紀前期のドイツの画家である。カール・シュミット=ロットルフらと並ぶドイツ表現主義の代表的画家で、版画家でもあり、裸婦画でも知られる。
両親はプロイセン系で、母マリア・エリーゼはユグノーの子孫であり、キルヒナーはそのことにしばしば言及した。化学技師で製紙分野の発明家でもあった父エルンストが職を探すにつれて、一家は転居を重ねた。フランクフルトやルツェルン近郊のペルレンの学校に通い、1892年に父がケムニッツの工科大学の製紙学教授の職を得ると、同地で中等教育を受けた。1898年にニュルンベルクへの学校旅行で、ゲルマン国立博物館にある初期の木版画の版木を見て、アルブレヒト・デューラーの芸術に触発され、自分も画家になろうと考えた。のちにこの体験が、ドイツ美術を刷新するという目標を決定づけたと書いている。
両親は芸術家になる彼を励ましたが、正規の教育を終えることも望んだ。そこで1901年にドレスデンの工科大学で建築学を学び始め、最初の学期に知り合ったフリッツ・ブライルと親しい友人になった。1903年から1904年にかけてはミュンヘンで美術を学び、1905年にドレスデンへ戻って学位を取り、以後は絵だけに打ち込んだ。同年、ブライルやシュミット=ロットルフ、エーリヒ・ヘッケルとともに画家グループ「ブリュッケ」(「橋」の意)を結成した。彼らは共通の様式や主義を持っていたわけではなく、従来のアカデミックな芸術に反抗する若手画家の集団であった。ブリュッケは、キルヒナーの最初のアトリエで集まった。そこはかつて肉屋の店で、プロのモデルではなく仲間うちの人々をモデルにして、15分ごとにポーズを変える裸婦の素描会が開かれていた。1906年にキルヒナーが書いたグループの宣言には、「創造への衝動を感じるものを、そのまま幻想なしに再現する者は、すべて我々の仲間である」とある。同年、ドレスデンでヌード画を中心とする最初のグループ展が開かれた。
1911年にベルリンへ移り、仲間と共に活動し、ベルリンの街を題材にした一連の大作を発表した。1912年には、カンディンスキーやマルクが結成した「青騎士」の展覧会にも出品した。1913年にキルヒナーが書いた『ブリュッケ年代記』が引き金になり、グループは解散した。
第一次世界大戦が始まると兵役に就き、1915年にハレの砲兵隊に配属されたが、神経衰弱がひどく、同年11月に除隊してサナトリウムで療養した。戦争の衝撃は、右手を切断した姿で描いた『兵士としての自画像』に表れている。1917年にスイスのダボスへ移り、山並みを題材に制作を続けたが、1930年代半ばから心身の衰弱が激しくなり、肺結核も患った。1937年にナチスが彼の作品を「退廃芸術」とし、退廃芸術展に32点が出品され、600点以上の作品が売却されるか破壊された。これにも衝撃を受け、1938年にダボスの自宅でピストル自殺を遂げた。58歳であった。ダボスには、作品を多く所蔵するキルヒナー美術館がある。
同じ年に亡くなった人物
- キャサリン・カール (1938年没)
- マリア (ルーマニア王妃) (1938年没)
- ラモン・フランコ (1938年没)
- マックス・ヴィーン (1938年没)
- ニコライ・トルベツコイ (1938年没)
同じ地域に関係する人物
- レオン・メレディス (1930年没)
- フリードリヒ・クリスティアン・フォン・ザクセン (1968年没)
- ヴォルフガング・ヒルデスハイマー (1991年没)
- フェルディナンド・ダヴィッド (1873年没)
- フリードリッヒ・ミーシェル (1895年没)