伝記
バルドゥール・フォン・シーラッハは、ナチ党の全国青少年指導者を務め、のちにウィーンのユダヤ人追放に関与したドイツの政治家である。1907年、ベルリンに生まれた。父カールはアメリカ系ドイツ人の近衛騎兵将校で、母エマはフィラデルフィア出身のアメリカ人だった。シーラッハ家は貴族の家柄で、母方にはアメリカ独立宣言の調印者が二人いた。父は1908年に軍を退役してヴァイマルの宮廷劇場の支配人となり、一家も同地へ移った。幼い頃から詩を書き、バイオリンを練習した。家庭では英語が使われ、ドイツ語より英語が得意だった。
1917年、改革教育学者ヘルマン・リーツの理念に基づく寄宿学校に入った。そこでは年長の生徒が年少者を導く方針が採られ、この経験は後の青少年指導に影響したという。第一次世界大戦後、帝政が崩壊すると宮廷劇場は閉鎖され、父は失業した。皇室を敬愛していた兄カールは自殺し、シーラッハはヴァイマル共和政への憎しみを募らせながら育ったとされる。17歳頃には民族主義的な青少年団体に加わり、ヘンリー・フォードの反ユダヤ主義的な著作を読んだ。後年、彼はその本との出会いが自分の破滅につながったと語っている。
1925年、ヴァイマルでアドルフ・ヒトラーの演説を聞き、同年5月9日、18歳の誕生日にナチ党へ入党した。1927年にはヒトラーに招かれてミュンヘンへ移り、ミュンヘン大学で英文学、美術史、エジプト学などを学んだ。1928年にニューヨークを訪れた際、銀行を営む叔父から職を勧められたが、アメリカで働いてほしい母の願いにもかかわらず断った。学生の支持者を集め、同年7月にナチ党学生連盟の指導者に選ばれた。1931年10月、全国青少年指導者に任命され、翌年6月にはヒトラーユーゲントの全国指導者となった。1932年には国会議員にも当選した。同年10月にポツダムで開いた青少年集会には五万から七万人が集まり、1929年の党大会に集まった青年は二千人ほどだった。
1933年、ヒトラー内閣の発足後、シーラッハの指導部はベルリンへ移された。同年4月にはユーゲント団員五十人を率いて、ドイツ青少年連合全国委員会の本部を占拠した。6月にはドイツ国青少年指導者に任じられ、党と国家の青少年組織を一元的に指導する立場となった。ヒトラーユーゲント以外の青少年組織を統合したり解散させたりし、1933年末には十歳から十八歳の約二百三十万人が同団に加わっていた。1936年末には団員が六百万人を超えた。同年のヒトラーユーゲント法でほかの青少年組織が禁じられ、十歳から十八歳が加入を義務づけられる法的基盤が作られた。実際の義務化は1939年からだった。彼は学校教育への影響も広げようとし、教育相ベルンハルト・ルストや軍部と対立した。1938年の反ユダヤ暴動については、団員に参加しないよう命じた一方、ユダヤ人を助ける行動は取らなかった。
第二次世界大戦が始まると、シーラッハは青少年指導者の職を休み、従軍を願い出た。ヒトラーは1939年11月末にこれを許可した。後にウィーンの総督兼帝国大管区指導者となり、ウィーンからのユダヤ人追放に関与した。戦後、ニュルンベルク裁判でユダヤ人追放に関する人道に対する罪に問われ、有罪判決を受けて禁固二十年となった。最終階級は予備役陸軍少尉、突撃隊大将だった。1974年8月8日に死去した。
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